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「哲学」の目的と方法について



これまでの私の過去の経緯を振り返ってみても、私が本質的な関心を持ってきたのは、「哲学」の分野だったと思います。誰にでもそれなりに趣味や娯楽はありますが、なんと言っても、私にとってもっとも面白いのは、「哲学」だといえます。人間は十人十色で、このインターネットで作られている多くのホームページを見ても、ある者は「料理」に、ある者は「車」に、また、「プログラムソフト」に、また「サッカー」「野球」「ラグビー」などのスポーツに、また「アニメ」や「イラスト」など、それぞれ、自分の興味を開拓しているようです。「蓼食う虫も好き好き」とはよく言ったものですが、「哲学」などが好き、と言うのは、「変な虫」ならぬ「変な人間」なのかも知れません。とくに、アニメやイラストが好きなこんな人
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(http://betobetosan.hp.infoseek.co.jp/gallery.html)たちから見れば、私たちのように「哲学」が好きと言うような人間は、同じ地上に住みながら、また同じ人間でありながら、ほとんど接点がないということなのかも知れません。とはいえ、「哲学」を「趣味」とするような価値観の持ち主である私たちからいわせれば、哲学的に浅薄な国民や民族は、あまり尊敬する気にはならないのですが。それに残念なことに、現代にあっても、哲学などに関心を持つ女性もきわめて少ないので、必然的に、異性との(私にとっての)接触の機会も少なくなることになります。これも残念なことです。(苦笑)。異性とでも、落ち着いて深い哲学的談義にでもふけることができれば、きっと幸せでしょうに。


それはとにかく、「好きこそものの上手なれ」ということわざがある一方、「下手の横好き」とも言います。私は後者に該当するのであって、私の哲学に関する能力は、客観的に見ても、素人に毛が生えたような程度で、到底「一家を成す」と言ったものでないことは、よく承知しています。とはいえ、私が、なぜ哲学が好きかと言うと、哲学の与えてくれる面白さが、精神のもっとも深い要求を充足してくれるからとでも言うしかないようです。内的な強制力が働いているとでも言うしかありません。しかし、このような欲求は、人間にとって本質的なもので、自然を人間の精神にしたがって改造するための原動力として、神が与えたものと言えるかも知れません。宗教的な表現になりますが。


確かに、聖書に描かれているイエスの十字架の話なども、「精神的な糧」として、私たちの「心の渇き」を癒してくれるかも知れません。しかし、宗教と違って、必ずしも大衆的ではない「哲学」が与えてくれる慰めや快楽は、ごく一部の少数者だけによって見出されるものかもしれません。また、その歓びは、喫煙や味覚や性交などと同じく、ある程度の修練を経ることなくしては、真の醍醐味はわからないものなのかも知れません。しかし、いずれにせよ、将来においても、「哲学」が大衆的になることはないと思います。とはいえ、「哲学」は重苦しいものというイメージを一般にもたれているとすれば、それは、やはり、哲学にこれまで関係し従事してきた者の責任だと思います。イメージとしては、哲学は、ワーグナーやベートーベンのような「重い」世界ではなく、どちらかと言えばモーツァルトや滝廉太郎の音楽のように軽やかで美しく楽しい世界でありたいと願うものです。とくに哲学になにか権威主義的なところが残っているとすれば、残念なことです。




それに、私は、ヘーゲルとかカントとかいった書物に残された哲学だけが哲学ではないと思っています。単なる言葉だけではなく、行動の中に価値観と思想を探りたいと思っています。もちろん、テキストに残された、厳密な意味での哲学が尊重されるべきであるのは言うまでもありませんが、しかし、哲学が人間が環境にどのようにかかわって行くべきかということを本質的なテーマとするものであるかぎり、潜在的には誰もが哲学者の可能性は持っていると言えますし、人間であるかぎり、誰しもが、それぞれ何らかの価値観をもって、より良く人生を生きて行こうと考えている点では、哲学していることになるのですから。できることなら、無名の人々の生涯と行動の中に現れている、必ずしも言葉にはされないでいる思想と哲学を問題にして行きたいとも思っています。


青少年の頃は、文学が、小説や伝記などが面白く、それなりに読んだものですが、次第に文学に対する興味は薄れ、興味と関心は宗教へと向けられていきました。しかし、それもやがて、さらに、「哲学」に向って変化して行きました。そして今、哲学ほど面白く楽しいものはないと言うことになっているようです。これは理屈によってではなく事実としてそうなっている。ちょうどそれは、ヘーゲルが「精神の現象学」の中で、この物語の主人公である「我々」が、眼前のさまざまな感性的な事実の反省から出発して、さまざまな人生経験を踏み、さらに理性的な認識へと進み、そして、芸術や宗教を遍歴して哲学という絶対知の立場に達したのに似ていると思います。そこで到達した一つの結論は、なによりも、「哲学とは真理の概念的な認識だ」と言うことではなかったでしょうか。これはまた、私の哲学についての定義でもあります。


とはいえ、「哲学」とは何なのか。あらためて、一般的にその定義を尋ねてみると、よく言われるように、その答えは「哲学者の数と同じだけある」と言うことで、答えはあってないようなものかも知れません。「哲学」が「物理学」や「化学」などの自然科学と異なって、歴史的に積み重ねられ発展して行く学問ではないとされる理由もここにあると思います。


ちなみに、手元にある辞書で「哲学」の項目を引くと、次のような説明がありました。

① 世界や人生の究極的な根本原理を理論的に追求する学問。
② 自分自身の経験などから作り上げた人生観、世界観。理念。
           (小学館「現代国語例解辞典」)


さらに、岩波の哲学小辞典では、哲学を、「事物の一般的な原理の学」として、もっとも抽象的に規定した上で、他の学問科学と異なる哲学独自の特殊なあり方として、次の三点を掲げていました。

(1) それぞれの限定された対象領域をもつ個々の特殊科学とはちがって、哲学は自然および社会をつらぬく最も一般的な法則性を探求する。この意味で、哲学は、世界観でもあること。

(2) 哲学はまた、自然的および社会的な環境にたいする私たちの実践的な態度を問題にする。したがって、哲学は、単なる技術的な知識ではなくて、人生や社会についての全体的な思考の体系であり、さらに、人生や社会や自然にたいする私たちのかかわり方、態度、行動様式を問題にする点において、哲学は思想でもあるということ。 

(3) 哲学は単なる直観や体験ではなく、合理的な認識に基づく科学性を、特に、人間の認識や論理そのものについて、認識論、論理学として、自己吟味の要素を含むものでなければならない。    
                (岩波哲学小辞典「哲学」の項より)

小学館の「現代国語例解辞典」の説明も、岩波哲学小辞典の説明も、哲学についての説明としては、もちろん、間違ってはいないと思います。ただ、この二つの説明の関係は、前者が哲学の広義の意味、後者が狭義のより厳密な意味規定ぐらいの関係だと思います。


一般に巷で、飲み屋などの談義で語られるときの「哲学」は、小学館の「現代国語例解辞典」の説明のように、個人が自身の経験から結論として導き出した、人生観や世界観を意味すると思います。しかし、もちろん、この哲学の規定は、大学のなどのいわゆる「アカデミー」で論議される対象としての「哲学」の規定としては、不充分であることは言うまでもありません。やはり学問としての「哲学」として、取り上げられうるためには、少なくとも岩波哲学小辞典が説明するような要素が含まれていなければならないと思います。


哲学においては、「自然や社会を貫く、より根本的で一般的な法則」を探求することが、少なくとも、要求されるということです。とくにヘーゲル哲学以降は、「弁証法」が、もっとも普遍的な法則であるとされていますから、哲学とは、この自然や社会の変化と発展の中に貫かれている「弁証法」の論理を研究することを意味するようになっていると思います。これは、また(3)に掲げられた近代の「哲学」に対する要請でもあります。哲学が従来のたんなる「知識への愛」という意味にとどまらず、それが何よりも「現実的な知識」すなわち「科学」でなければならないという要求によるものです。


だから、現代においては「哲学」は科学でもあることが要件なのですが、ただ、「哲学」が、物理学や化学、生物学や植物学などの個別科学と、あるいはその他の特殊科学と異なる点は、哲学が追求する法則が、もっとも普遍的なものであることでしょう。したがって、哲学は、認識や論理そのものを、また、思考や言語そのものを吟味や研究の対象にすることになります。そして、歴史的には、それをもっとも広く深く追求したのは、ヘーゲルだといえるのではないでしょうか。その意味で、ヘーゲルを近代哲学の祖あるいは完成者とみなすことに同意できると思います。


しかし、現代の哲学の特色は、(2)の説明にもあったように、自然や社会や人生に対して、すなわち、世界に対してどのようにかかわってゆくかという行動的で実践的な課題を問題にする点にあると思います。これは哲学史的には、ヘーゲル哲学以降に、単なる「客観科学」に終始して、哲学者自身の主体性や実践の問題を放棄した俗流の近代哲学に対する批判として出てきたものです。具体的には、マルクスやキルケゴール、ニーチェなどに代表されるマルクス主義や実存主義が批判してきた問題だと言えます。確かに、哲学が主体性や実践の問題を中心的な課題とすべきだという主張そのものは間違ってはいないと思います。その意義は十分に認めるのですが、ただ、いわゆる実存主義が、哲学の「科学性」を不問にしてきた点については、「私の哲学史(3)」で、キルケゴールを取り上げたときにも論じ、批判した点です。


それにしても、このような要件を備えた、現代の哲学者は誰なのでしょうか。残念ながら浅学の私には良くわかりません。個人的には、とくに関心のあるヘーゲルを中心にささやかながらも研究して行きたいと考える、きわめて古色蒼然とした、私にとって、現代哲学のことは、残念ながら良くわからないのです。フーコーとかデリダとか言った現代哲学者の名前は、さすがに私の耳にも届いてき来ますが、良くわかりません。興味がもてないのです。また、機会があれば、勉強はしてみたいとは思っているのですが。


現代に生きる哲学者としては、せいぜい私の印象に残っているのは、チョムスキーぐらいです。彼は何よりも言語学者として知られていますが、その政治的な発言と行動でも知られています。私自身は、チョムスキーの政治的な見解には、必ずしも同意できないのですが、チョムスキーのような学者は、やはり、アメリカの自由と民主主義の奥深さを代表しているような人物として、また、上に述べたような「哲学」の概念にもっとも妥当する現代の哲学者として敬意を持つものです。いずれまた、チョムスキーの「哲学」を論じる機会があれ場と思っています。
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最後に、思想および思想家とはなにかについては、先の岩波哲学小辞典では次のように説明されています。それを引用して、この文章を閉じようと思います。

「思想とは、個々の観念や理論ではなく、人生や社会についての一つの全体的な思考の体系および態度をいう。またそれらの思考と行動の体系の確立に専念するものを思想家という」。そういうことだと思います。
by hosi111 | 2005-06-22 00:41 | 哲学一般