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作家と絵

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作家の小川国夫氏が亡くなられたそうである。とは言え、小川氏が亡くなられたのは、あらためて調べなおしたのだが、2008年4月8日のことだそうである。うかつにも、一年半ほど、氏の死去に気がつかなかったということになる。とくに現代文学の最近の動向についてもほとんど知らないし、最近は、文学や小説のことにはほとんど関心を失っているから無理もないことなのかもしれない。

ただ、私も青年のころには、まだ、文学への関心もそれなりに強く、また、青年時代の知人に小川国夫氏の崇拝者たちもいたから小川国夫氏らの名前は聞き知ってはいた。無類の酒好きの方でもあったらしい。小川国夫氏がどこかの新聞で『悲しみの港』と題された自伝小説風の新聞小説を連載されていたときも、気のつくかぎり眼を通していたと思う。その内容の記憶は今となってはほとんど失われているけれども、氏の独自の文体の小説世界の印象は残されている。

小説よりも、宗教や哲学に関心の深かった私にとっては、小説家としての小川国夫氏よりも、カトリック教徒としての小川国夫氏により関心があったのかもしれない。だから、NHKの教育番組で、「聖書案内」のような教養番組の解説者として、小川氏が登場したときも、欠かさずに見た。ただ、その聖書註解は、独自の知見をもたらしてくれるものではなく、私にとっては平板な印象しか残らなかったけれども。

小川国夫氏が亡くなられたのを知ったのは、先日、2009年11月29日の日曜日の日経新聞朝刊で、シリーズの「作家を魅了した絵③小川国夫とゴッホ」という記事の中に、小川国夫氏の肖像写真に付して、「晩年の小川国夫」という記述があったからである。「晩年の」という形容詞を見て、おやっと思った。生者にこんな形容を付すことはないからである。それで、WIKIで、小川氏のことを調べてみると、生涯は2008年4月8日で閉じられてあることを知り、あらためて小川国夫氏の逝去を確認することになった。

小川国夫氏は、文学界ではそれなりに知られていたはずだから、逝去の折りには、新聞やテレビで報道もされていたはずだが、情報音痴の私は気がつくこともないまま、ほぼ一年半も経過していたことになる。青年時代にオートバイで南欧を旅行したという小川国夫氏は、老年期にあっても頑健そうで、死とはまだ縁が薄そうな印象が私にはあった。

その新聞記事によれば、小川国夫氏はゴッホに心酔していたそうである。ゴッホはプロテスタントの牧師の息子でもあったが、聖書やキリスト教が、この作家と画家を互いに引きつけ結びつける糸であったのかもしれない。そこに精神的な因縁もあったことだろう。

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小川国夫氏がなぜゴッホに深く惹かれたのか、小川氏の著作もほとんど読んではいない私には今のところよくわからない。ただ、互いに惹かれ合うところがあるということは、精神的に何らかの近親関係の存在していることを示している。さもなければ、電車で隣り合わせに座ったとしても、互いに何らの関心もなく擦れ違うだけだろう。

ゴッホはたしかにその数奇的な短い生涯と合わせて、画家と芸術に興味がないではない。とは言え、少なくとも私にとってはレンブラントやセザンヌ、スーラ、シスレー、小林古径、菱田春草、フェルメール、ピサロら以上にゴッホに関心を惹かれない。

少なくとも私には、ゴッホの絵を前にしたとき、とくに「ひまわり」や「星月夜」、「鴉の飛ぶ麦畑」「赤い椅子」「種播く人」などの絵を前にしたとき、何か不安感と忌避感が先に立って、長時間にゴッホの絵画の鑑賞に浸っていられない思いがある。これまでもゴッホの作品のいくつかを私のブログのイメージ画像として使っているにもかかわらず。だから、また何人かの画家のいくつかの絵画の印象記も書いているが、ゴッホの絵についてだけはまだ一度も書いて見たいという気は起こらなかった。

その新聞記者は、小川国夫はゴッホの絵の中に「終末観的、絶望的な絵の中に込められた希望のサインに目を向けている。」とも書いている。しかし、今の私にとっては、ゴッホの絵に不安やおののきを感じることがあっても、少なくとも「希望のサイン」などを見出すことができない。

それにしても、世界からの関心が薄れてゆくのは、老年者の宿命かもしれない。時間に余裕がないせいもあるけれども、最近になっても、小説や文学や絵画をゆっくり鑑賞することから遠ざかっているのは悲しいことではある。生涯に時間が限られているとすれば、何かを選択し、他方を放棄せざるをえない。

政治や経済についても同じことである。貴重な残された生涯の時間を何に振り向けるかは,ますます重要な選択になる。政治や経済などの「世事」への興味と関心は打ち切り、没世間な農事と哲学と普遍的な科学への選択と傾斜への沈黙を深めてゆくのもやむを得ないのかもしれない。ただ、事物へのみずみずしい関心と問題意識はいつまでも失わないでいたいとは思う。


http://mainichi.jp/select/wadai/graph/2008Requiem/9.html
(肖像写真)
by hosi111 | 2009-12-01 13:17 | 日記・紀行