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「いじめ」の文化から「民主主義」の文化へ(1)

北海道と福岡のいじめ自殺 文科省、現地調査へ(朝日新聞) - goo ニュース


相変わらず、学校でのいじめは深刻で改善されていないようだ。以前にもこうした問題で論じたことがある。高校生の犯罪にちなんで──学校教育に民主主義を(1)さらにいくつかの提言を加えたい。


いじめはどこの国にでもある。それは人間の本性の一面でもあるから、根絶することはむずかしい。だからこそ、教育関係者はいじめの存在を前提として日常的に対策を講じてゆく必要がある。いじめの報告がなかったという表面的なことで満足するのでなく、むしろ、報告のないことを不自然に思うくらいの感覚を持つ必要があるだろう。


北海道で小学校六年生の女の子がいじめを理由に自殺をしたのは一年も前だそうである。福岡県筑前町の三輪中でおきた中学二年の男子生徒の場合には、遺書も残されていたそうである。本来、楽園であるはずの学園生活が、周囲の生徒の「いじめ」によって地獄と化している。


「いじめ」を根絶することは、人間社会から殺人事件をなくすようにむずかしいかもしれない。それが人間の悲しい性(さが)なのだろう。しかし、たとえ現実がどうであれ、「いじめ」は根絶すべく対策を講じてゆく必要がある。「いじめ」問題もその方法次第によっては、対策のあり方次第では相当の成果をあげることができる。学校生活で、いじめによる自殺など、万が一にも起させてはならない。


「いじめ」は犯罪であり、場合には、それは殺人行為である。そのことを、生徒自身のみならず、社会も教育関係者も保護者も持つ必要がある。今回の自殺をした北海道や福岡の生徒の保護者の皆さんは、みずから受けた被害を殺人事件として警察に告発するべきである。
調査によって犯罪が明らかになれば、加害者は少年院なり刑務所で刑に服すことになる。「いじめ」は刑事犯罪であるという認識が、生徒らにも教育関係者にも弱いのではないか。


サラ金の過酷な取立てでよって、債務者を鉄道自殺に追い込んだ業者が逮捕されたように、生徒を自殺に追い込んだことに客観的で明白な事実や証拠があるならば、そうした行為を行った生徒や教員は逮捕して正当な処罰を受けさせる必要がある。そうして、「いじめ」がれっきとした刑事犯罪であることを、社会にも教育関係者にも、そして、なにより生徒たち自身にはっきりと自覚させる必要がある。


そして、結果として、事実として「いじめ」による生徒の自殺を防ぎえていないということは、学校教育関係者がその職業的な義務と責任を全く果たしていないということである。学校内やクラスで起きた事件については、学校関係者は全責任を負わなければならない。それが職業的な管理者の責任であり、義務である。学校の教職員は、子供たちの人格と人命を保護し育成するという重大な責務をになっている。学校関係者がその義務を果たせていない以上は、司直の手によって法的に問題が解決されるよう対処する必要がある。



また、学校内に存在するさまざまな「いじめ」の現象のほかに、「大人社会」の中にも発生するさまざまな「いじめ」の現象傾向についても、首相や文部科学省の大臣らをはじめ、現在の日本の社会的な指導者の地位にある者の問題認識が弱いのではないか。


たとえば先般、靖国神社参拝問題で意見が異なることを理由に、元自民党幹事長の加藤紘一氏の自宅に放火した男がいた。その際にも、公然とマスコミに向かって、時の小泉首相がそうした暴力行為を非難したということも聞いていない。


今問題になっている北朝鮮の核実験にからんでも、どこかの朝鮮学校の竹やぶが放火されたり、朝鮮学校に通学する子供たちに「嫌がらせ」があるようだ。これらも明らかにいじめにほかならない。それなのに安部首相をはじめ文部科学大臣が、こうした国民大衆の下劣な傾向を、マスコミなどで公然と非難したということも聞いていない。


そうした「いじめ」にからむ品位のない国民の犯罪行為に対しては、一国の指導者である首相や文部科学大臣が、率先してマスコミなどに向かって非難し、批判するべきなのである。そうした習慣や文化を指導者が伝統的に作ってゆく必要がある。これまでの日本の指導者の誰が、そうしたことを十分に行ってきただろう。


首相をはじめとする国家社会の指導者たち自身の、「個人の尊厳」についての自覚と感度、「民主主義の倫理観」が問われている。現実がこの程度のものであるから、国民全体の水準も推して計り知るべしではないか。


 


by hosi111 | 2006-10-18 11:00