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西澤潤一氏の教育論(1)

先日の産経新聞のコラム欄「正論」に教育問題が取り上げられていた。半導体学者として有名な西澤潤一氏もそこで発言されている。日本では今、OECDの学力調査の結果をきっかけに、学生の学力低下問題などが大きな社会問題になっていることがその背景にある。資源小国の日本では、国民の資質のみが唯一の資源であるから、当然といえるかもしれない。人的資源の枯渇はそのまま国力の衰退に直結するからである。


西沢氏をはじめ多くの論者は徳育の教科への導入や道徳の教科書の採用をそこでも主張しておられるけれども、いずれも問題の根本的な核心をつく解決につながるような提案はなかったように思われる。


まず何よりも、「民主主義」教育を倫理道徳の根幹としてとらえる観点を示されておられる方が誰一人もいなかった。それほど、「戦後民主主義」に対する嫌悪感が強いということかもしれないし、あるいは、日本人における民主主義の水準を証明していることになっているのかもしれない。


もちろん、「民主主義」の確立のみが国民の文化的な問題の解決に役立つのではない。それだけでより完全な国家が形成されるわけではむろんない。西沢氏が述べられているように、ただ倫理道徳のみならず、歴史や芸術に対する素養などが国民の間に深く養われているのでない限り、とうてい「品格ある国民」として有機的な民主国家の完成は期待できない。


また、現在の学校教育上の問題が、その背景にある「資本主義社会」の弊害が学校社会にも降りてきているためであることも自明の事実である。だから、そうした背景にある社会問題の解決なくして学校教育の問題も解決することは難しいといえる。こうした観点からの本質的な問題点の指摘も、西沢氏の論考をはじめ、「正論」上の識者たちの論考中にも見られなかった。これは新聞のコラム欄という制約もあるからやむをえない面もある。


またしばしば教育の大きな問題として現在の受験競争が取りざたされるけれども、もちろん、「受験戦争」そのものが悪いとはもちろん言えない。人間社会に競争はなくならないし、「競争」にも意義があるからである。問題にすべきは「競争」の内容であり、無駄な「競争」を生んでいる公的教育の退廃と劣化である。それこそが教育改革の核心ではないだろうか。その一方で、いまだに残る国民の過度の学歴指向とともに、学校教育に多くの弊害を生む原因となっていることも事実だろう。


そこには国民全体の教育観そのものが問われているといえる。いったん受験に直接に不必要とされるにいたった場合、一人の国民として不可欠な歴史教育や道徳教育も二の次三の次にされてしまうのである。


それはさらには国民性の問題でもある。そこにはモンゴル人種特有の実利主義がさらに奥深い根底に存在しているといえるかもしれない。目先の利害を超越して真理そのものを指向するといった、たとえばインド人に見られるような、実利を度外視した強烈な形而上学への衝動は国民にはみられないのも確かだ。


そうしたさまざまな背景があるとしても、現在の日本がかかえる教育をはじめとする文化的な混乱のもっとも根本的な要因は、どこにあるとみるべきだろうか。


それは現在の日本国民全体に見られる「国家意識の欠落」の傾向とそれと関連する「民主主義教育の不全」に求められると考えている。これが現在の日本の教育問題の核心的な要因であると思われる。したがって、問題解決の方向としては、憲法改正を契機とする日本国民の国家意識の回復と、真実の民主主義の学校教育における徹底である。それによってしか、現在の日本社会が抱える諸問題のより根本的な解決は期待できないのではあるまいか。


「教育基本法」はすでに改正はされたが、単に「教育基本法」をいじくったからといって、現在の学校教育の諸問題の解決にはつながらない。因果関係の認識が間違っているからである。


もちろん現在の教育問題の現状をどのように見るかは、その評価の尺度をどこにおくかで結論も異なるだろうが、はたして現状をどこまで深刻に見るべきか。同じ産経新聞の「正論」でも、先に曾野綾子氏が日本の豊かさに対して皮肉を言われておられる。(【正論】新しい年へ どこまで恵まれれば気が済む 作家・曽野綾子


現実の問題としては、そもそも完璧な教育制度を期待する方が無理であり、六割方の成果を上げていればよしとすべきといえる(それすら過大な要求といえるかもしれない)。だから問題は、相対的にもっとも真理に近い教育制度とは何かであるだろう。


現状を全否定することも間違っていると思う。戦後教育や戦後の民主的改革についても評価すべきは正しく評価すべきである。戦前の教育を全否定して、より劣悪な教育制度を導入することになった戦後の教育改革と同じ間違いを繰り返してはならないだろう。戦後六十余年持続した南原繁氏や田中耕太郎氏らの労作である旧「教育基本法」の意義もきちんと評価すべきだ。持続するにはそれなりの意義があったからである。それを全否定するのも間違いである。


前置きはこれくらいにして、とにかく西澤潤一氏の論考を参考に、教育や文化の問題をもう少し検討してみたい。それによって現在の日本の教育問題を考える材料と見る観点が少しでもひろがれば幸いである。

西澤潤一氏の論考は次のようなものである。


引用




【正論】「教育改革」はどこへ 首都大学東京学長・西澤潤一2008.2.4


□硬直化した哲学は通用せず

 ■南原・丸山流の「理想論」を脱せよ

 ≪責任者の驚きの発言≫

 伊吹文明前文部科学大臣や山崎正和・中教審会長が昨年、相次いで「歴史教育は学校では要らない」とか「道徳教育は教科にはしない」といった発言をし、現在の狂った社会や家庭を生じた戦後教育を改めるために努力を続けてきた人たちを仰天させたことは記憶に新しい。

 その直後本欄にも市村真一先生(京都大学名誉教授)の反論が出て少々安堵(あんど)したものの、今時になっても、このような基本的な、しかも教育の最高責任者ともいうべき方々から対照的意見が出されたことに一驚した。

戦後の教育改革はあまりに急激であったこともあり、難点が出てきた。何よりも大きかったのは国家家族主義から家族主義、さらには利個主義にわたる、「全」から「個」への移動が急激に行われたことである。
 

 戦前の徴兵制はほかの国々でもみられ、特に日本だけということはなかったが、軍国主義が強烈だった。しかしそれが廃止されると一気に、自国の防衛すら米国任せ、ついには隣国から夜間上陸したやからに国民が拉致されるに至っても、国は何もしようとしない。

 国民の大多数はわが身が可愛(かわい)くて危険を冒さず、被害者の家族が立ち上がるまで何もしないという、世界で最も公的な束縛が弱く、それでいて個の主張の強い国になっていた。

 戦後の日本人は低賃金にもかかわらずよく働いた。その結果、高い経済水準が生み出されたが、かつて働くことが好きといわれた国民は、すっかり遊び好きになってしまった。当時は考えられなかった栄養過剰による健康障害者が続出しているというから、驚きである。

 ≪過去を反省し暴走を防ぐ≫

 社会の進歩を拒否することは許されない。しかし、周到な配慮を欠いた「進歩」は進歩を拒否するよりも恐ろしい被害をもたらすことがある。「昔」をよく反省、検討して暴走を予防しなければならない。

 戦後の教育改革のリーダー役をつとめたのは南原繁先生といってよかろうが、曲学阿世と批判されたことでも知られているように、日本の教育は大幅に米国型教育に移行した。天野貞祐先生らの日本文化を残そうという努力もむなしかった。

 最も激しいのは教科科目であった。当時、東大総長の南原先生はキリスト教徒だったこともあって、美濃部亮吉先生や丸山真男先生らと共に人格者としても知られ、率先して改革を実行した。家庭でキリスト教徳育がほどこされた先生方の家庭では改めて学校での日本式徳育の必要もなかったのであろう。

 しかし、それのない一般家庭では信念を失って、徳育はもっぱら学校に任すと考えることになった。さらにこうした教育で社会人になった父兄母姉が教育者側に立つようになるや、学力低下、犯罪が急速に社会に広がり、ひいては国力の低下まで心配される事態となった。

 このまま推移すれば、この傾向はいっそう強まり、拡散して社会崩壊をもたらす懸念すら生まれている。

 ≪「自分のもの」なくては…≫

 このような事態を招来したのが人格者である南原先生の教育改革である。かつて東大・安田講堂で警官隊に火炎瓶を投げていた学生らが籠城(ろうじょう)しながら、南原先生の後継者と目された丸山氏の哲学を読んでいたという記事が新聞に掲載されていたのを、いまさらながら思いだす。

 両哲学とも、人類愛にあふれ、それが若者の心を打ったのだと考えたが、年老いてなお、熱い情熱と共にロマンとして胸に抱きつづけている人も少なくないだろう。しかし、今日でも闘争回避の思想が、現実面で領土問題の解決を妨げたり、拉致問題の解決に打つ手なしといった事態を招いている要因となっていることが少なくない。

 ロシアのイワンの馬鹿は美談であるが現実ではない。他人事に理想論を振り回し、自己の問題になるまで考えを変えないということこそ、人類愛に悖(もと)ることを忘れてはならない。広げれば、理想論を守りつづければ自分自身の生命と生活の保障すら放擲(ほうてき)しなければならないことを覚悟すべきである。

 野中広務先生(元衆院議員)は「今の日本人には自分のものがない」といっておられた。自分の信念や考え方だろうが、どんな状況になっても、自分の信念を曲げない強さと共に、自分の考えを通し得るだけの対応の広さがなければならない。

 このためには、きれいごとだけをつないで、自分の哲学としているだけでは足りない。より練り上げて適用を練習しておく必要がある。日本人が、ものをうのみにして、考えない教育を実施してきた弊害がいま現れている。
(にしざわ じゅんいち)



引用終わり・・・・・・・・・・


まず氏の問題認識で共感できるとも思われる点を上げておこう。西澤氏は言われる。

まず、第一点は「戦後の教育改革はあまりに急激であったこともあり、難点が出てきた。何よりも大きかったのは国家家族主義から家族主義、さらには利個主義にわたる、「全」から「個」への移動が急激に行われたことである。」


たしかに、西澤氏が主張されるように、かっての日本の教育改革があまりにも性急で大胆であったために、たらいの水と一緒に赤子をも流してしまうように、戦争以前の教育制度がもっていた長所をも捨て去ることになってしまったのではないだろうか。


GHQは占領統治の目的の一つとして「日本国の民主化」をあげていた。その一環として、民法の改正が取り上げられた。そのことはあまり今日では反省や議論の対象にはなっていないが、そこで日本社会の国民生活の根本的な変革につながる改革が行われたのである。とくに家制度の消滅が日本人の倫理道徳意識に大きな影響を与えたことは疑えない。現在の日本人の倫理意識や学校や家庭の教育問題を論じるときに、こうした歴史的な背景を考慮に入れない論議は問題の分析を的確に行っているとはいえない。


日本国憲法の制定とともに、戸主権が廃止され、それに伴なって家制度がなくなった。しかし当時もこの問題をめぐって賛否両論が戦わされていた。法学者の間でも大きく議論が展開された。とくに、我妻栄氏や宮沢俊義氏ら、いわゆる進歩派の学者らは日本の家制度の廃止に積極的ではあったけれど、刑法学者の牧野英一氏らは日本社会の美風を損なうものとして猛烈に反対した。もちろんそれらの改正によって得たものもあれば失ったものもある。そうして、今日私たちが自明のものとしている完全な普通選挙権も、戸主権の消滅と同じように戦後の「民主化」とともに実現したものである。


今日では現行の民法の元での婚姻制度などの事実は歴史的にも自明のものとなっているし、過去の家制度がどういうものであったかも忘れられている。けれども、戦前にブラジルなどに移住した日本人などの間にはまだ家制度の気風の余韻が残っているようである。いうまでもなく、この家制度は明治時代の自然主義文学者たちが深刻な問題意識をもって批判的に描いたもので、当時の「進歩派」にとっては、また、女性解放運動家たちにとって、克服すべき改革の対象となっていたものである。


戦後GHQのもとで行われた社会改革の結果、家制度がもっていた日本の伝統的な倫理道徳的な秩序意識もおなじように崩壊してゆくことになった。


従来の日本の家制度は欧米の価値観や倫理観とは明らかに矛盾するものである。——とくに欧米ではキリスト教の倫理道徳が根底にあり、そこでは夫婦単位の家庭観が確立されていたが、そうした背景のない日本においては、戦後の民法改正の結果、教育勅語に代表される倫理道徳の価値観を実質的に担ってきた家制度の解消によって、国民的な倫理基準を日本国民は失うことになった。


 


by hosi111 | 2008-02-07 22:28