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西行の桜

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西行法師の桜(一)


陽気に誘われて、花の寺に西行を偲びに行く。
西行法師は遺言の歌にも、


78  仏には  桜の花を  たてまつれ
   わが後の世を  人とぶらはば


と詠んでいるように、生涯これほど花に深く執着した歌人はいないのではいかと思う。実際に彼が花にちなんで詠んだ歌はいずれも感銘深く、余人をもって代えることができない。


いまだなお青年にあって彼が出家したと伝えられるこの寺と彼の歌を訪ねて、この歌人をとぶらうことにする。


西行の出家は、千百四十年、保延六年十月十五日、二十三歳のときである。法名円位、大宝坊と号す。西行が出家して翌々年、千百四十二年、永治二年三月十五日の藤原頼長の日記『台記』には、実際に対面した西行に年を尋ねると、二十五と答えたことが記されている。そのときの西行の人となりは次のように記されている。


「西行法師来タリテ云ク、一品経ヲ行フニ依リ、両院以下、貴所皆下シ給フナリ。・・・又余年ヲ問フ。答ヘテ曰ク、廿五ナリト。・・・抑西行ハ、本兵衛尉(佐藤)義清ナリ。重代ノ勇士ヲ以ッテ法皇ニ仕フ。俗時自リ心ヲ仏道ニ入レ、家富ミ年若ク、心愁無キモ、遂ニ以ッテ遁世ス。人之ヲ歎美セルナリ。」


実際に西行に会った者の記録であるから、貴重な証言であるといえる。それによれば、出家当時、西行は二十三歳でまだ若く、武門の家に生を享けて、家も豊かであったという。ただそこに藤原頼長が、「心愁無キモ、遂ニ以ッテ遁世ス」と記してあるのは正確ではないだろう。どんなに家が富んでいても、また生活の苦労もないように見えても、西行の和歌を見てもわかるように、天性彼の心ほどに感受性の鋭いものであれば、「心愁無キモ」というのは正しくはないだろう。頼長の眼には外見からはそう見えただけにちがいない。


仁王門をくぐり竹林の間に延びる参道をのぼってゆく。この仁王門だけは応仁の乱の兵火にも生き残って、創建時の面影を伝えるという。白壁に桜が見える。そして正門に至る。去年見た晩秋の、というより初冬の時の面影とはうって変わって、寺の門扉は桜に飾られていた。ウグイスの囀りも聞こえてくる。
   
108 いかでわれ  この世のほかの  思い出でに
   風をいとはで  花をながめん


いずれは、自分もこの世を去ってゆかなければらない身の上である。西行も自分の生のはかないことを知っていた。彼はこの美しい桜の花をこの世に生きた証しとして来世の思い出のために、せめて記憶にとどめようとする。


西行の時代も同じで、美しい花見には人出はいつも多く、ゆっくりと心静かに花を眺めることができなかったこともあったようだ。


 しずかならんと思ひける頃、花見に人々まうで来たりければ


87  花見にと  群れつつ人の  来るのみぞ
   あたら桜の  とがにはありける


週末を避けてきたせいか、そして時間もずらせてきたせいか、幸いに人出も少なく、三々五々にわずかに見られる程度だった。西行のように、街中のような桜見物の人出を桜の罪にしないですむ。


96  山寺の花盛りなりけるに、昔を思ひ出でて


  吉野山  ほきぢ伝ひに  訪ね入りて  
  花見し春は  ひと昔かも


「昔を思い出でて」とあるから、この歌を詠んだとき、西行はすでに若くはなかったのだろう。山寺の花が満開であるのを見て、それをきっかけに、西行は自分が昔、険しい崖道を辿りながら、吉野山に花を訪ねた若き日のことを回想している。


「山寺の花」とあるから、かって自分が剃髪したことのあるこの寺を西行がふたたび訪れた時に、昔の吉野山の山行きを思い出して詠んだとしてもおかしくはない。


このお寺へは私も、青年の頃から何度も数え切れないくらい訪れている。今となっては、かってここを一緒に訪れた人で音信のとれないままの人もいる。そして、私もまた髪も白くなって、昔のままではない。今も昔も、時の流れは誰も押しとどめることができない。



寺と花だけが、おそらく西行の時代からそんなにも変わっていないのだろう。しかし、人の命ははかない。かってこの寺を訪れた無数に多くの人々も、それぞれに自分の花の記憶を携えて、時間の彼方に消えて行くだけである。


言葉も芸術をも残さなかったものは忘れ去られてしまって、記憶にも残らない。ただ西行のように、時間とともに古びない芸術の永遠に生きたものだけが、新たに生きる者の記憶によって折りに触れて現世によみがえってくる。


寺の境内では、白い花びらの山桜と枝垂桜の淡い紅色が春の空を背に一瞬の天上の饗宴を垣間見させてくれているようだった。
鐘楼堂の脇に植わっていた、西行法師の手植えの桜と伝えられる、西行桜をしばし眺める。


 桜花 忘るるなかれ  汝を愛でし   
   懐かしき歌人  法師の御名を


by hosi111 | 2007-04-09 20:12