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2月24日(日)TW :国家と死刑




RT @honnenogod: @shavetail 箱物は維持にお金がかかりますから無駄なものは二束三文でも売ってしまった方が良い場合が多々です。簡保の宿もそうでしたが。公共事業等で財政出動でなく減税や配ったほうが良いです。政府紙幣を配るのは良かったでしょうね。







かつて戦争して日本を攻撃した相手も祭られているアーリントンに祈りを捧げる日本と、未だに相手国の宗教にケチをつけまくる中韓とどっちが大人なんでしょうね…日本人でよかった "時事ドットコム:アーリントン墓地に献花=安倍首相" jiji.com/jc/zc?k=201302…


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アメリカ大統領の靖国神社参拝希望を過去数度断っている日本政府。 時事ドットコム:アーリントン墓地に献花=安倍首相 jiji.com/jc/zc?k=201302…


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アーリントン墓地に献花=安倍首相 jiji.com/jc/zc?k=201302…オバマは靖国神社に参拝するのか?元敵国の奴に来て欲しくはないが言っておく。黒人のオバマが大統領になれたのは人種差別撤廃を訴えて戦った日本のおかげ。大東亜戦争が無ければオバマの大統領就任は無かった。


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【報復としての刑罰】報復とは、異なった外面を持った相互に異なる行為の、それぞれがもつ内的な関連と同一性である。犯罪者に報復が為されるとき、その報復は一見は犯罪者に属していない無縁な行いのような外観をもつ。しかし、刑罰はやはり犯罪を明らかにすること、







すなわち、必然的な事柄の一端を前提にする他の一端に他ならない。報復が非難されるのは、それが何か非道徳的なもの、復讐として現れ、かつそれが個人的なものと見なされるからである。しかし、報復自体を実行するものは、個人的なものではなく、概念である。







「復讐は我にあり」とは聖書において神の述べ給うところであり、もし、私たちが報復という言葉によって、主観的な意志のかってな気まぐれを思いうかべるとするならば、それは犯罪の姿を自身に映したものに他ならないからである。犯罪とは報復を犯罪者自身にまで招くところの犯罪者自身の行為である。







報復においては、眼には眼、と言われもするが、その種類は必ず同等で無いこともできる。しかし殺人においては事情は異なる。そもそも生命は一個の存在全体であるから、生命に等しい代わりを与えない価値によっては刑罰は成立しない。この場合は殺人者の生命を奪うことによってのみ刑罰は成立しうる。







ベッカリア(ルソーの影響を受けたイタリアの「人道的」刑法学者)は周知のように国家に死刑の権利を拒否したが、それは社会契約には殺されることについての個人の同意が含まれているとは推定されず、むしろ生存の意志が認められなければならない、という理由にもとづいてであった。







しかし、国家はそもそも契約ではなく、個別者としての個人の生命や所有の保護および安全は、国家が担わなければならない本質であるというものでもない。むしろ、国家は個人以上のものであり、個人の生命や所有そのものを要求もさえし、それらの犠牲を要求するものである。§100







犯罪者の行為のうちには、単に犯罪の概念、個々人の同意の有無にかかわらず、「絶対的に」犯罪であるという必然的な合理性が含まれている。これこそが国家が主張すべき「犯罪の概念」である。また同時に、そこには個々人の意志も含まれている。刑罰そのものには犯罪者自身の正義=法も含まれている。







by hosi111 | 2013-02-25 03:45 | 教育・文化