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主の祈り

「天におられる私たちの父よ、
御名の聖められますように。御国の来ますように。
御心の天におけるように地にも行われますように。
私たちに必要な糧を今日もお与えください。
私たちに咎ある人を私たちが赦すように、
私たちの罪を赦してください。
私たちを試みに遭わせず、悪よりお救いください。

まことに、御国と力強い御業と輝かしい栄光は、
永遠にあなたのものです。」


マタイ書第六章第八節以下より

彼らのまねをしてはならない。あなたたちの父はあなたたちが求める前から、あなたたちの必要とするものをご存知だ。
だから、あなたたちはこのように祈りなさい。
「天におられる私たちの父よ、御名の聖められますように。御国の来ますように。御心の天におけるように地にも行われますように。私たちに必要な糧を今日もお与えください。
そして、私たちに咎ある人を私たちが赦すように、私たちの咎めを赦してください。さらに私たちを試みに遭わせず、悪よりお救いください。」


ルカ書第十一章第一節以下

その人はある所で祈っておられたが、その祈りが終わると、彼の弟子の一人が言った。「主よ、私たちにも祈ることを教えてください。ヨハネが彼の弟子たちに教えられたように。」そこで、その人は彼らに言われた。「あなたたちが祈るときにはこう言いなさい。天におられる私たちの父よ、御名の聖められますように。御国の来ますように。御心の天におけるように地にも行われますように。私たちの日々の糧を日ごとにお与えください。私たちに咎ある人を私たちが赦すように、私たちの罪を赦してください。そして、私たちを試みに遭わせず、さらに私たちを悪よりお救いください。」


福音書のこの二カ所の記述は内容は本質的にはおなじであるけれど、微妙な違いもある。

マタイ書の文脈では、イエスが丘に登られたときに、ともに附いてきた弟子たちに、イエスの教えにとって核心となる事柄を「丘の上の教訓」として教えられたが、この「主の祈り」はその際に教えられたものである。そしてイエスはさらに、隠れたところにおられる父なる神に祈る場所として、自分の部屋を勧められ、それも長々と言葉数を多くする異邦人のまねをしないようにさとされた後に、この祈りを一つの型として教えられたものである。

ルカ書の文脈では、ただ単純に、イエスがある場所で祈り終えられたときに、弟子の一人に請われて教えられたことになっている。

しかし、いずれも主が弟子たちに直接に教えられた祈りであることから、これらは「主の祈り」として、キリスト者の祈りの核となっている。

この小さな祈りの中には、キリスト教の核心的な概念が含まれている。哲学もまた、無限に深い興味をもって、それらの概念を研究の対象とするものである。哲学はこれらの宗教的な表象を概念的に把握することをめざしている。「御国」「御心」「御名」「罪」「咎」「悪」「誘惑(試み)」「赦し」「救い」が具体的にどのようなものであるか。「名は体を現す」とも言われるが、名(概念)の実体が問題である。

このきわめて短いこの祈りの文言に明らかなように、イエスは、「父なる神」が私たちの祈りの対象として活けるものであること、その「神」は「天」におられること、天においては神の「御心」が行われているが、この地上にも神の御心が行われて、「神の国」の到来するように祈ることを教える。

後半は私たち自身のための祈りであり、それは、飢えや身体のために日々の糧を求め、心の幸いのために悪や誘惑から救われ、また私たちの犯した罪や咎の赦しを願う祈りである。

しかし、それにしてもイエスはこのような「祈り」をどこから学んだか。それは言うまでもなくエリヤやイザヤの旧約聖書からであり、さらには詩篇そのものからである。詩篇第百四十五篇第十一節の賛美歌は、この「主の祈り」に付け加えられて、キリスト者の日常の祈りの言葉になっている。

詩篇第百四十五篇第十節以下

あなたに造られた全てが、主よ、あなたに感謝し、
あなたの愛に生きる人は皆、あなたを誉め讃える。
彼らは御国の輝かしい栄光を言い、
あなたの力強い御業を語る。
主の力強い御業と
御国の輝かしい栄光を人の子らに知らせるために。
あなたの御国は永遠の王国で、
あなたの支配は代々にわたる。
by hosi111 | 2008-01-22 14:18 | 宗教・文化