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私の哲学史(3)──キルケゴール(主体性について)

      

キルケゴールは、第二次世界大戦後にサルトルらに代表される新たな哲学思潮となった実存主義の、その先駆とされる哲学者、詩人思想家である。ニーチェなどと並ぶ。特にキルケゴールは宗教的に、キリスト教の観点から人間の主体的なあり方を問題にした点で特筆される。

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キルケゴールの伝記的な研究はすでに多く出ているし、哲学辞典を調べればわかることなので、ここでは詳細は書かない。ただ概略は次のようなものであったとされる。キルケゴールは北欧のデンマークに1813年に生まれ、1855年に死んだ。成功した商人である父の比較的晩年の子として生まれ、特殊な宗教教育を受けて育った。彼の思想はこの生育の環境抜きにしては語れない。またそのことは主体的な思想家として一回きりの生涯を生きようとした彼のような思想家の場合には当然のことである。日本では古くは内村鑑三などによって、無教会キリスト者の祖としても紹介されてきた。彼は終生を真のキリスト者として生きることを課題とし、当時のデンマーク国教会に対する批判者として生涯を生きた。それは主に著作活動を中心とした生涯であって、宗教的思想作品と並んで日記や文学的作品も多く残している。


当時のデンマークは北欧の小国として、文化的にも学問的にも隣国ドイツの大きな影響のもとにあった。特に哲学界においてはドイツ観念論の巨匠ヘーゲル(1770~1831)の圧倒的な影響下にあった。そうした時代的な背景に生きたキルケゴールの思想の核心は、自己の主体的なあり方を哲学の中心的な課題とした点にある。それは、彼がキリスト者として、どのように生きるべきかという青年に特有の課題において、ヘーゲルの影響下にあった当時の多くの二流三流の思想家、宗教者が、その主体的問題を等閑視し、切実な課題としていないことに対する批判として生まれたものである。


それは時代の必然といってよいものである。哲学者といえども時代の子であり、時代を超越することなどできないからである。キルケゴールもまた時代の子であることは論を待たない。それに哲学者は「時代の子」であるという時間的歴史的な制約を負うばかりではなく、また「国家の子」、「民族の子」として空間の制約も負っている。特に、キルケゴールほど、その時代と風土を背景において理解しなければ、その真実を理解できない思想家はいない。それほど彼は、当時のデンマークという国において、それもコペンハーゲンを中心とした市民社会の中で、個別具体的な主体として生きることを課題としたのである。それはまた、倫理的な課題を自己のものとするキリスト教という宗教的な背景を抜きにしては語ることはできない。私の哲学史(3)──キルケゴール(主体性について)_d0008729_1514227.jpg



私たちが生きた青年時代は今日と同じく、日米安全保障条約下にあり、大学紛争やアメリカのベトナム戦争やが大きな社会問題になっていた。太平洋戦争後まだ20数年しか経過しておらず、共産主義や社会主義に対する理想も失われていない時代だった。いわゆる自由主義国家アメリカの共産主義国家ベトナムに対する戦争の作戦の一環として、わが国にもアメリカ海軍のエンタープライズ号が九州佐世保に寄港した時に、当時の新左翼活動家たちは寄港に反対して佐世保に集結し、機動隊と「ゲバ棒」を武器に戦った。その際に京大生の活動家山崎君が機動隊の機動車に轢かれて死亡した。彼の遺品のバックの中にキルケゴールの『誘惑者の日記』があったと新聞に報じられていた。


当時はマルクス主義と並行して、サルトルらに代表される実存主義がもうひとつの時代思潮だった。その当時の多くの青年も、自分たちの生き方を模索する中で、マルクス主義や実存主義などの思想に出会い、それらを人生の指針として生きようとしたのである。山崎君などは、マルクス主義を主体的に生きようとした青年の一人だったといえる。私にとってもキルケゴールは青年時代に出会った多くの思想家の中の一人である。私にとってはキルケゴールはキリスト教もしくは聖書とヘーゲル哲学の入門としての意義を持った。


当時の中心的な時代思潮だったマルクス主義は「人類の解放」をその哲学的な動機とする思想である。その意味では「キリスト教」などと共通点を持つ。しかし、キルケゴールは彼自身の思想の中にそうした社会的な観点をほとんど持たなかった。きわめて個人的な倫理の観点を堅持した。これも彼が実存主義の祖と呼ばれることの一つの理由である。特に政治を問題にすることのなかったことにも、彼の個人主義は現れている。彼は恋人との結婚の問題を、自身の中心的な宗教問題として捉えた。彼は「人類の解放」といった問題については本質的な関心を持たなかった。政治的には、彼は終生常識的な保守の立場にとどまった。


キルケゴールは父の残した遺産に頼りがら生活し、市民として特定の職業に従事することもなかった。また、国家や都市などの共同体の問題にも直接かかわることもなく、生涯を著述に従事して生きた。もちろん、そのこと自体ひとつの政治的な立場であって、近代国家に生きる近現代人は、政治とは無関係に生きることはできない。ただ彼は、海外にキリスト教の伝道に赴く青年に曳かれるような、本質的にはロン主義的な文学者だった。これは、三〇歳代を超えて生きることはできず血統的に若死にすることを運命づけられているという、キルケゴール自身の宿命の自覚と関係がある。こうした彼の思想と哲学は青年のそれである。この点において、彼の師であるイエスの思想の一面を継承している。


哲学史的には、キルケゴールはヘーゲル哲学の「巨大な山脈の麓に咲いたあだ花」と評することもできる。なぜなら現代人にとって、社会経済についての学問的な、科学的な認識抜きにしては真に主体的にはありえず、哲学はまた科学でなければならないからである。キルケゴールには主体性の問題についての正しい指摘はあったが、学問的、体系的な認識という点ではヘーゲルには及びもつかなかった。少なくともキルケゴールの、ヘーゲル哲学に対する主体性の欠如という批判は、二流三流の哲学者、思想家、大学教授には該当するかも知れないが、ヘーゲルやカントなどの思想家には該当しない。少なくともヘーゲルもカントも優れて主体的な哲学者でもあったからである。



キルケゴールが主体性の問題を近代哲学の中心的な問題であることを想起させたことには意義がある。そのことは現代においても意義を失っていない。主体的な決断のない思想や哲学など、その名に値しないからである。特に二流三流の「思想家」「哲学者」に対する批判としては意味を持つかも知れない。しかし、キルケゴールやサルトルの主体性哲学に欠陥があるとすれば、それらが徹底した客観主義を媒介としていないことにある。客観主義への徹底を媒介とすることのない主体性は、真に止揚された主体性とはいえないからである。この点においては、ヘーゲルの論理学こそ真の主体性の論理を明らかにしているといえる。
by hosi111 | 2005-06-10 14:14 | 哲学一般