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ミネルヴァのフクロウは夕暮れに飛び立つ



ミネルヴァのフクロウは夕暮れに飛び立つ

たまたま入った喫茶店で、そこにおいてあった新聞に目を通していたとき、「現代のことば」というコラムがあった。そこに、同志社大学教授で国際経済学を専攻する浜 矩子(のりこ)氏が、「再び黄昏か、ポスト鳩山の日本政治」と題する小文を書いておられた。

浜氏は詩篇第百二十六篇から「涙のうちに種蒔くものは、歓びのうちに刈り取る」という一文とオペラ「ナブッコ」の中の一節「行けよ、我が思い。黄金の翼に乗って」を挙げた後、ヘーゲルがその著『法の哲学』の序文に語って以来、しばしば誰にでも引用されるようになった、「夕暮れ時になってはじめて飛び立つミネルヴァのフクロウ」について、次のように述べられていた。少し冗長になるが引用する。

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「翼といえば、もう一文。「ミネルバの梟(ふくろう)は黄昏時(たそがれどき)に飛び立つ」というのがある。これは、かの大哲学者ヘーゲルの言葉だ。彼の「法の哲学」の序文の中に登場する。
ミネルバは知恵の女神。フクロウはその使者である。古い知恵の黄昏の中から、新しい知恵の到来を告げつつ、知恵の女神の使者が飛び立ってゆく。そのようにして、人類は歴史の中を前へ前へと進んでゆく。そうヘーゲルは言いたかったのである。

<< 引用終わり。

確かに、①「ミネルヴァの梟はまず、迫りくる黄昏とともにその飛翔を始める。」とヘーゲルは書いているが、この一文は、その前文の比喩的なまとめとして述べられているのものである。その前には次のような文がある。

②「哲学が、その灰色に灰色を重ねてさらに塗り重ねるとき、そのとき生命の姿はすでに年老いたものになってしまっている。そして、灰色の中に灰色を塗ることによっては生命の姿は自らを若返らせることはできず、むしろそうではなく、ただ認識されるのみである。」

そして、②→①と続くこれらの文自体は、さらにその前に以下のパラグラフを受けて述べられたものである。

③「なお、世界はいかにあるべきかを教えることについて、一言言うなら、いずれにせよ、哲学は、そのためにはいつも遅すぎるのである。哲学が世界についての思想を時代の中にまず現すときには、すでに現実はその形成過程を仕上げており、自らを完成させてしまっている。概念が教えることは、必然的に同様に、歴史も教えている。すなわち、現実の成熟することのうちに、観念的なものが、まず現実的なものに対して互いに現れ始め、そして、前者(観念的なもの)は自らを、現実的な世界をその実体において把握して、知的な王国の形に築き上げるのである。」

だから、③→②→①とつながってゆく文脈のなかで、「ミネルヴァの梟はまず、迫りくる黄昏とともにその飛翔を始める。」という一文の示す意味は、哲学が現実の成熟のあとに遅れてやってくるものであるということ、現実が完成されてのちに、はじめて観念の王国、知の王国、哲学の王国が建設されるということを言おうとしているのであって、浜氏の言うように、

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「古い知恵の黄昏の中から、新しい知恵の到来を告げつつ、知恵の女神の使者が飛び立ってゆく。そのようにして、人類は歴史の中を前へ前へと進んでゆく。そうヘーゲルは言いかった」

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ということなどではない。浜教授がここで推測しているように、フクロウは「新しい知恵の到来を告げる」ようなもの、ではまったくなく、フクロウに象徴される哲学というものは、現実が成熟した後に、その現実の中にひそむ実体を、知の王国として、観念の形態で、認識するに過ぎないということを言おうとしているのである。だから、ここで浜教授は、ヘーゲルが『法の哲学』の序文で言おうとしていることとはむしろ逆のことを言っている。

たまたま、この「夕暮れに飛び立つフクロウ」は、私のブログのタイトルでもあり、この標語の言葉の正しい真意が伝わらないとすれば、残念なことである。ヘーゲル哲学についてほとんど何の知識も持たない、多くの人々の誤解を避けるために一言しておかなければならないと思った。

このように正しい認識ではなく誤った認識を、大学教授が世間に流布するのも問題であるし、また、京都新聞の編集部には、あまりにも自明なこのヘーゲルの言葉の正しい真意を、浜教授に伝えるものが実際に誰もいなかったのだろうかとも思う。

ミネルヴァのフクロウは、すなわち哲学は、世界がいかにあるべきか、について教訓をたれようとするものではない。そうではなく、哲学は実在する現実の中に理性的なものを探求することであり、事柄の必然性という、現実的なものを把握することである。同じ序文でヘーゲルが言っているように、国家学は――哲学も――国家がいかにあるべきか教えることにあるのではなく、国家という倫理的な世界が認識されるあるがままを教えるものである。

これまでにも何度も繰り返し語ってきたように、国家や国民、民族の文化学術水準というものは、大学や大学院の水準に、それもとりわけ「哲学」の水準に規定されるものである。大学院で学者たちの提供する理論水準以上に、優れた国家を形成することはできないのである。

逆に言えば、国民は自らの民度にふさわしい程度の大学、大学院しかもてないということである。

菅直人首相も、安部晋三元首相も、麻生太郎元首相も鳩山由紀夫前首相も、大学や大学院で教授され教養を積んでから、市民社会に出て、ときには一国の首相の地位に就いたりするのである。だから、彼らが大学や大学院でどのような学問修行を積み重ねてきたのか、大学教授たちが、学生時代の彼らに、いかなる教育訓練の修行をさせてきたのか、それによって、国家や社会の各分野の指導者の資質も規定されるのである。政治においても劣悪な指導者しかもてないとすれば、それは、彼ら「指導者」たちが受けてきた大学、大学院での教育訓練が、事実として劣悪であったということを証明しているにほかならない。

新聞記者も学校教師も政治家も企業家も医師もスポーツ選手も、すべて大学、大学院で教育訓練されて社会に出る。やがて各分野で指導的な地位について行くにしても。だから、国家、国民、民族の運命を決するのは、大学、大学院での教育訓練の実際の内容である。劣化し堕落した大学、大学院での教育改革こそが、国家・国民・民族の死命を制することになるのはそのためである。

現在の多くの大学の憲法学者たちのように、自ら妄想する憲法第9条の「理想」を教え垂れるのではなく、まず、現実の世界史の中にある諸国家の実相をまず学生たちに教えなければならない。

ヘーゲルによれば、過酷な現実の中に見出すことのできる理性の与える満足というものは、憲法九条のような枯れた尾花のように拙く浅いものではない。それは生きたみずみずしい薔薇の花であり、その美しさに歓び踊り心より満たされるものであるという。
by hosi111 | 2010-06-10 13:32 | 哲学一般