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ヨハネ書を読む


 


早いもので、すでに八月に入った。今日は二日。久しぶりに聖書を読む。最近は、哲学書やハッチントンの『文明の衝突』や田中直毅の『市場と政府』などを読んでいて、聖書そのものから少し離れていた。聖書はできうる限り、寸暇を惜しんで毎日読む必要があると、改めて思った。詩篇については注解書を書きかけたまま中断している。


四つの福音書の中ではヨハネ書を最も愛読している。他の福音書と比較して、特にどこが気に入っているのか説明するのは難しい。読んだのは20章のイエスの復活の場面である。


復活については、私が高校生のころに聖書を読みはじめたときから、今日に至るまで、常に気になっていたところである。私は、この復活の問題や、処女受胎などの問題にについては、まだ思想的に決着はつけてはいないと言える。正直言ってよくわからないのである。しかし、にもかかわらず、聖書そのものに対する興味と関心は聖書と出会って三十年以上が経過したにもかかわらず、今日まで失っていない。と言うことは、私が聖書を読む上で、復活やその他のいわゆる「奇跡的な事項」は、私が聖書を読みつづける上で、本質的なことでなかった事を証明しているのかも知れない。


 


復活や処女受胎の話などはよく理解できなかったが、それは、聖書を興味を持って読みつづけることの障害には必ずしもならなかった。


ただ、現在の私の立場は、復活などについての聖書の教義については、ペテロやパウロやヨハネなどの使徒たちが信じたのと同じ信仰が、私にも保たれることを祈るのみである。その意味では、聖書の記述は、すべて、叙述そのままに真実として受け入れる信仰を持てるように祈っている。


その一方で、復活などが実際にあったかなかったか、と言った神学論争には係わりたくないとも思っている。


ヨハネ書第十九章には、イエスの十字架上での死が描写されている。十字架の上で息絶えたイエスのわき腹を、兵士が槍で刺すと、血と水が流れ出たと書かれてある。そして、アリマタヤのヨゼフと言う人が、ピラトに願い出て、イエスの亡き骸を引き取り、そして、香油とともに布にくるんで、新しい墓にとにかく納めておいた。


ところが、第二十章では、マグダラのマリアと言う女性が、イエスを葬ったはずの墓に来てみると、イエスの亡き骸はすでにそこにはなかった。そして、復活したイエスが、弟子たちに次々と自分の御姿を現しになる。そのときにイエスは、弟子たちに聖霊を授けられる。復活の信仰は聖霊享受の前提であることがわかる。


このとき、ただ一人その場に居合わせなかったディディモ(双子)と呼ばれるトマスだけが、イエスの蘇りを信じなかった。そして、自分の指をイエスの手の傷跡に、手をわき腹に入れてみるまでは信じないと言った。


 そして、一週間後、弟子たちとトマスが一緒にい入るとき、再びイエスが現れた。家の戸には鍵がかかっていたのに、イエスは部屋の真中にまできて、「あなたたちに平和あれ」と言われた。そして、トマスに向かって、「あなたの指を私の手の釘跡に当て、私のわき腹に手で触れなさい」と言った。それで、トマスは初めて、イエスの復活を信じ、「私の主よ、私の神よ」と言って、イエスが神であることを認めて、信仰を告白した。それまでのトマスは、恐らくイエスについては、優れた預言者として、単なる優れた師の弟子として、イエスに従事してきたのだろう。死から復活したイエスを見て、初めてイエスを神として認めた。だから、復活を認めることは、イエスを神として認めることと同義である。


この福音書の記者、ヨハネがこれらの記事を記したのは、31節にも述べられているように、イエスが、神の子、救い主であることを信じ、その信仰を通じて、命を得るためであることが告げられる。


イエスが、復活であり、生命であることは、繰り返し語られている。イエスを信じるものは、だから死ぬことがない。(第11章)など。


このような物語を荒唐無稽な話と受け止めるかどうか。少なくとも、曲りなりに折に触れて聖書を読むような自分には、この話が単なる荒唐無稽の話でないことを認めているからに違いない。もしそうでなければ、とっくに聖書を無意味な本として、捨て去っただろう。


聖書は、創世記、詩篇、イザヤ書、ロマ書など多くのテキストからなる本であり、福音書はそうした土台の上に成立した文書である。・・・


これ以上の考察は日記として逸脱するので、改めて別の個所で考察することにする。


うだるような暑さである。自転車で散歩がてら出歩く。久しぶりに外食する。また久しぶりに聖書の問題について考えようという気になる。まだ当分、暑さは続くそうである。


おりしもNHKの「クローズアップ現代」という番組で、日本における人身売買問題が取り上げられていた。日本の人身売買に対する取り組みの弱いことについては、アメリカから批判を受けていることは、かねてから聞いて知っていた。情けない国である。こんな国では、トヨタやホンダがアメリカで、いくら売り上げを伸ばそうと、そんな問題はいっさい帳消しになる。


 


司法や警察関係者の、そして何よりも政治家の問題意識のなさ、その低さに、実際私も苛立ちさえ覚えていた。少女たちを食い物にしている連中は一刻も早く全部刑務所に放り込んでしまえ。


 


それにしても、南米やアジアその他の貧困の問題を根本的に解決しないことには、少女たちの生き血を吸う連中がぼうふらのように発生するのを防げないのも情けない話である。そうした国々には、自国の貧困問題に真剣に取り組み、また、売春の犠牲になる少女たちを自国から日本に送り込めないように、司法警察をより万全なものにする義務がある。


また、日本でも、そんなぼうふらのような連中は厳罰に処すことができるよう、法律に不備があれば早急に改正し、警察の機構も整備する必要がある。村田国家公安委員長や漆間巖警察庁長官たちはきちんと自らの職責を果たせ。


 

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by hosi111 | 2005-08-02 23:51