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老いらくの恋

在原の業平は、西洋におけるドン・ジュアンのように、色好みの男としてわが国において伝説化された男性である。そのいわれに大きな影響を及ぼしたのは、もちろん『伊勢物語』である。単なる口伝だけでは、これだけ深く広く業平伝説は伝わらなかっただろう。伊勢物語は、歌集であるとともに、在原業平という一人の男性を描いた、日本の原風景ともいえる物語でもある。


この歌物語は、元服したばかりの少年の初恋に始まり、異性の幼馴染たちとのさまざまな思い出から、青年時代の東国へのさすらい、また、仕えた主君の没落にともに涙をながし、身分違いの恋や別れた妻との再会、狂気じみた恋、田舎娘との恋など、献身や友情、さまざまな恋愛を遍歴し、そして、やがて病んで老い死に至るまでの、人間なら誰しもがたどる生涯の時間が、業平とおぼしき男性を主人公にして語られている。


そこで語られる物語は、多かれ少なかれ人間なら誰もが体験するような事件を内容としている。天真爛漫な幼少期から、異性への目覚めと恋、青年の出世欲と壮年期の挫折と不遇の中の失意など、千年や二千年の歳月では変わらない人間性の真実を明らかにしている。それらが日本語の美しい響きと描写とあいまって『伊勢物語』に古典としての価値を保っている。



業平の恋多き生涯の中でも、彼にとってもっとも切実な女性は藤原高子だった。その氏が示すように、高子は栄華を極めつつあった藤原家の出自であり、一方の業平自身は、平城天皇を祖父としながらも、父である阿保親王が「薬子の変」に連座したために、権力の中枢への道は閉ざされていた。それで、もてあましたかのような業平の男性のエネルギーは恋愛へと一途に注がれる。


特に、高子が、二条の后として清和天皇の女御として入内し、もはや手の届かぬ女性となってからは、その失恋のゆえに、業平の恋はいっそう奔放なものになった。


業平と高子との恋の軌跡は、伊勢物語の初めの数段にもよく記されている。第二段には男の愛した女は西の京に住んでいたとされている。実際に現在の西京区大原野にある大原野神社には藤原氏の氏神である「天児屋根命」が祭られているから、高子が少女時代をこの辺りで暮らしていたと考えてもおかしくはない。かっての右京区、現在の西京区あたりに藤原高子が娘時代を過ごしていたのかもしれない。


一方、業平の母であった桓武天皇第八皇女、伊登内親王が長岡京に住んでいたことは、第八四段の「さらぬ別れ」に記されている。だから、業平が青少年期に母と一緒に長岡京に住んでいたと考えれば、かっての長岡京と西の京は隣どうしだったから、業平と高子は幼い頃に目と鼻の先で暮らしていて、第二十三段「筒井筒」に記録されているように、業平と高子は幼馴染だったかもしれない。


また初段の「初冠」に記されているように、少年業平が、奈良の京、春日の里に狩に行ったときに出逢ったとされる美しい姉妹の一人が高子であったのかもしれない。春日野には、春日神社があり、この神社は藤原氏の総本社だから、高子がこの地で生まれ、幼少の時期を姉と一緒に暮らしていた可能性はある。それに洛西の大原野には今も春日町という地名が残されているし、奈良の春日野も京都の大原野のいずれも、藤原氏とはゆかりの深い土地である。ただ、物語そのものには業平と高子のなりそめは記されてはいない。


奈良の平城京から長岡京に遷都されたのは延暦三年(794年)、そして、それからたった十年後にはさらに、平安京へと遷都されている。都の真中を貫いていた朱雀大路あたりにはまだ十分に屋敷も整っておらず、新しく遷された都はまだ建設の途上についたばかりである。そうした時代に業平も高子も生きていた。


その二条の后、高子がまだ「春宮の御息所」と呼ばれていた時、小塩山のふもとにある大原野神社にお参りになったことがあった。その折に、近衛府の役人としてお供したのが、すでに年老いた業平だった。晩年の彼は右近衛中将になっていた。昔愛した女性の乗った御車のお供をして、彼女手ずから禄を賜ったとき、業平はどんな気持ちだったろう。彼はお礼に


大原や  小塩の山も  今日こそは  神代のことも 思ひいづらめ


と詠んだ。


この時の業平の気持ちは、わざにぼかされて明らかにされていない。しかし、この歌にこめられた業平の心は、


藤原氏の子孫であるあなたがお参りする今日こそは、大原野神社に祭られた藤原氏の祖とされる天児屋根命(あめのこやねのみこと)は、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)のお供して天から降臨された神代の昔のことを思い出していらっしゃるでしょう。そのように私も、あなたと共に過ごした昔のことを思い出すでしょう、というのである。


晩年の業平は、「近衛府にさぶらひける翁」といかにも老人のように記されているけれども、このとき業平はまだ五十歳になるかならずかだった。高子はまだ三十歳前後だったはずである。当時にあっては、今日のような寿命の尺度ではなく、五十歳も過ぎれば、能面の翁のように、すでにもう相当に老人扱いだったのだ。この歌は老年になって知った恋を詠んだものではない。昔恋した女性を眼前にしながら、晩年の業平が若かりし日の恋を追憶しているのである。


 


by hosi111 | 2006-06-01 22:53