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日々の聖書(8)———心と肉体


日々の聖書(8)———心と肉体


気を付けて祈っていなさい、誘惑に引き込まれないように。心は欲していても、肉体は強くはないから。   
(マタイ書第二十六章第四十一節) 


               
この言葉はイエスが弟子たちとともにゲツセマネというところに来て祈られたときに、イエスが祈っておられる間ですら、こらえ切れずに眠ってしまわれた弟子たちをいましめられた言葉である。


キリスト教が「心」と「肉体」を明確に分離して考えるようになったのは、おそらくイエスのこのような考えから来るのだろう。仏教や儒教などにおいては、これほどまでに心と肉体を分離して捉える思想的な伝統はない。


そして、私たち日本人にとって、キリスト教のわかりにくさの原因の一つも、この肉体と心を二分的に見る人間観と、その「心」が具体的に何を表しているのか、その概念が明確ではないことにあるのではないだろうか。


実際に、この「心」は、場合によっては、「精神」とか「霊」とか「魂」とかに訳されたりする。いずれにせよ、それは、神が人間を創造するときに、大地から土をこねて人を形づくり(肉体)、その鼻に「命を与える息」(精神)を吹き込まれることによって、人間が生きるようになったことから来ている。(創世記2:7)


だから、聖書における「心」「精神」「魂」「霊」などのもともとの語源は、「息」とか「風」のように、目に見えないものであり、神から与えられた生命の源である。この「息」がなくなれば、すなわち、「心」や「精神」がなくなれば、人間の肉体は死ぬものである。


もともと神から与えられた生命の息、心、精神はどんなに強くても、土で造られた人間の肉体は強くはない。だから、人間はどんなに心で神の教えや戒めを守ろうとしても、弱い肉体はそれを犯し破ってしまう。ここに人間の生まれながらに持つ悩みがある。イエスはその悩みに苦しまないように、忠告されて言われた。


気を付けて祈っていなさい、誘惑に引き込まれないように。心は欲していても、肉体は強くはないから。
   
(マタイ書第二十六章第四十一節)


by hosi111 | 2006-12-11 18:38