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ヘーゲル哲学史

久しぶりにヘーゲル哲学史を読む。インターネットの時代では、このヘーゲルの哲学史のテキストも、国内外のネットで検索して自室に居ながらにして読める。ただ、日本語訳「ヘーゲル哲学史講義」はまだネット上には上梓されていないように思われる。日本語ではまだ無条件に公開されているサイトはない。国民の税金を使ってなされた仕事なら、無条件に国民に公開すればよいのにと思う。商業上の利用は駄目だそうである。商業に対する偏見があり、文化的にも閉鎖的なのだ。

ネットの普及に応じて、ヘーゲル研究などのサイトも少しずつ充実してきているように思う。けれど、まだ、世界の最先端を行くような充実した研究サイトはないようである。大学での「象牙の塔」の内部での研究形態も変えてゆくかもしれない。

哲学史の第三部は、悟性哲学批判である。ヒュームやバークレイの主観的観念論、スコットランドの経験哲学、フランスの唯物論哲学を検証したのち、フランス大革命の観念的な実現であるドイツ啓蒙思想を経て、ヤコービとカント哲学の批判にはいる。

ヤコービの哲学

ヤコービも信仰を知識や思考と対立して捉えるが、ヘーゲルとっては、「思考とは普遍的な知識であり、直観とは特殊な知識である」であるから、ヤコービにおける直観に基づく信仰も特殊な知識にすぎないというのである。思考が媒介された知識であるのに対して、ヤコービの信仰は直接的な知識である。(岩波ヘーゲル全集哲学史下三 p67 )


私たちが今知っているものは、無限に多数に媒介された結果である。   (ibid.p69) にもかかわらず、ヤコービもまた、直接知の立場に、直観の立場にとどまっている。カントと同様にヤコービもまた、「思考の確信にとっては外的なものは何らの権威をもたず、一切の権威は思考によってのみ有効である」ことを主張しはしたが、ただ、カントの信仰は彼の不可知論によって単なる理性的な要請にもとづいたものにすぎないし、また、ヤコービのように「私の胸の中に啓示される」というだけでは、いずれにも証明も客観性もない。

ただ特殊なもの、偶然的なものを追い払う思想によってのみ、原理は客観性を得て、その客観性は単なる主観性から独立して、潜在的かつ顕在的な(必然的な)ものになる。絶対的観念論者ヘーゲルはこう批判する。

ヘーゲル批判の特色は、それぞれ哲学の意義と限界を明らかにし、その限界を、矛盾を内在的に弁証法的に克服して、より高い真理へと発展させることにある。  ibid(p70)こうして、ヘーゲルは彼に先行する二人の哲学を批判し克服してゆく。

カントの哲学

ヘーゲルはカント哲学を執拗に批判する。カント哲学はヘーゲル哲学の母胎だから。カントは自由や必然、存在と概念、有限と無限、一と多、部分と全体などを悟性的に規定するのみで、概念的に把握しない。
ヘーゲルのカント哲学批判の核心は、物自体を現象と分離した悟性的なカントの二元論、不可知論批判である。

カントは、事物を「概念的」に把握しない。カント哲学は、「悟性的な認識の方法を組織化した形式的な体系」にすぎない。  ibid(p104)

だから、カントたちが理解した、存在や有限や一などは概念ですらないと言う。カント哲学にあっては、自我は対象とは相互に他者として分離されたままである。しかし自我と外的対象は弁証法的な関係にある。(精神現象学を見よ。)

「カントの著作は思考しようという試み、言い換えると、物質という表象を生み出さざるをえない思考規定を明らかにする試み」である。だから、概念──テーゼ(正)、存在──アンチテーゼ(反)、真理──ジンテーゼ(合)が絶対的な形式として、カントにも予感されているが、それらは概念的に、演繹的に把握されてはおらず、カントにあっては経験的な感性と悟性が特殊のまま外的に結合されるにとどまっている。

ヘーゲルは、カントのあの有名な百ターレルの例を取り上げて、概念と存在を分離したことを批判する。これが、カント批判の眼目であると思う。ヘーゲルにあっては単なる観念の百ターレルが現実の百ターレルに移行する。このヘーゲルの概念観は誤解されて、ほとんど正確に理解されていないのではないだろうか。


ヘーゲルの概念観は、それをわかりやすい比喩でたとえるなら──このこと自体、悟性的な説明であって、概念の進展の必然性の論証はない──概念とは建築士の頭の中にある家の設計図か青写真のようなものである。それはもちろん実際の家ではない。しかし、この青写真・設計図は材料と労働を媒介にして現実の家となって実現し、この建築士の概念や表象は「揚棄」されて客観的な存在となる。


また、人間という「概念」は精子や卵子の内部に観念的に含まれる。ヘーゲルにとって存在はすべて内部にこのような概念を含むものとして理解されている。だから、目的とは「一つの概念が対象の原因とみなされる限りにおいて、その概念を対象化したもの」である。  ibid(p119)

そして事物はすべてそのような概念の自己展開として「概念的に把握」されてこそ、その真理性が客観的に実証されると言うのである。ヘーゲルにあって概念がカントやヤコービらの「単なる概念(観念)」と異なるのは、概念が潜在態から顕在化して自己を必然性をもって展開してゆくダイナミックなものとして捉えられていることである。

ヘーゲル哲学に対する批判や誤解は、その多くはこのヘーゲルの概念観に対する無理解から来ているように思われる。

また、ヘーゲルはカントが、特に自然論において、物質を原子からではなく、力と運動から構成しようとしている点も評価している。この点は、アインシュタインの相対性理論によってもその正しさが証明されているのではないだろうか。カントのダイナミックな自然論を評価しそれをヘーゲル独自に発展させた彼の自然哲学は、悟性的な現代物理学と比較しても、今日においても興味のあるところではないかと思う。

こうした哲学史などを読んでいつも感じることは、カントにせよヘーゲルにせよ、西洋哲学の著しい特色は、この自我や自意識についての分析の深さ鋭さである。この背景にはおそらくキリスト教の存在があると思う。キリスト教民族以外に、このような自我意識を形成できるだろうか。

ヘーゲルにとってもカントにとっても自我は個別性にあってなお直接的に本質的であり普遍的であり客観的である。この個別にして有限の自我の内部に無限と永遠が開示される。それはすでにキリスト教において準備されていた事柄だった。カントが有限性と無限性を悟性的に分離したの対して、ヘーゲルにあっては有限性が自己の内部の矛盾を克服して、無限性の高みへと登りつめる。ibid(p107)

世界はただ一つの種子から永遠に咲き出でる花にほかならない。ibid(p134)

いずれにせよ、ヘーゲルの法哲学講義や哲学史講義は、ヘーゲル哲学体系そのもののよき解説書であることは言える。彼の哲学の理解は、全体を理解しなければ細部が分からず、細部が分からなければ全体も分からないという構図があるのかもしれない。漸進的に読解してゆくしかないようである。

それにしても、ヘーゲルの概念論は現代においても意義をもつか。
私は以前に自由民主政治の概念至高の国家形態の小論文を書いたことがある。これらはいづれも、ヘーゲルの概念論を踏まえた、理念の具体化の試みである。少なくとも私にとっては意義がある。

ヘーゲルの概念論は引き続き勉強して、まとめてゆきたいと思う。あまり深く研究されていないヘーゲルの概念論と自然哲学は引き続きテーマにしてゆきたいと思っている。

もし、こうした問題に興味や関心をお持ちの方があれば、議論し切磋琢磨してお互いの認識を深めてゆきましょう。
by hosi111 | 2006-02-22 22:12 | 哲学一般