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宗教と国家と自由

現行の日本国憲法は確かに信仰の自由、宗教の自由、良心の自由などは最高の価値として認めている。だからこそ、私たちは小泉首相の靖国神社参拝を否定しなかったのである。しかし、問題はそこにとどまるものではない。さらに、その信仰そのものの、その宗教の、その良心の「真理性」が問われなければならないだろう。少なくとも、私たちが宗教的に、文化的に高級な自由な人間であろうとする限り、さらにその信仰が「真理」であるかが問われなければならないのである。

「鰯の頭も信心から」という言葉があるが、その宗教が真理であるか、その「良心」の内容が真理であるか、が問われなければならないだろう。オーム真理教や靖国神社や創価学会その他の既成、新興の宗教が宗教として真理であるかが問われなければならない。神戸児童連続殺傷事件の酒鬼薔薇少年ですら「バモイドオキ神」を信仰していたではないのか。単に信じればいいという問題ではない。信じる対象が、真理であるのか、それとも「鰯の頭」その他なのかどうかが問題なのである。

真理以外の対象を崇拝することを偶像崇拝という。そして、宗教の自由とは、いかなる「神」をも信じる自由ではなく、真理を信じる自由のことである。憲法で保証されている言論の自由、宗教と思想信条の自由、良心の自由とは、この真理を信じることによってもたらされる自由のことである。

単に形式における自由のみではなく、その内容の自由が、その真理性が問われる必要がある。小泉純一郎氏をはじめ現代日本人にはこの問題意識がほとんどないのではないか。歌手プレスリーに舞い上がる小泉氏その他の政治家を思想家としてはほとんど評価しないのもそのためでる。そこにあるのは盲目的な「信仰」であり、その神が「鰯の頭」か「バモイドオキ神」か、はたまた「松本智津夫」か「毛沢東」か、その神々の内容こそが問われなければならないという自覚と反省はない。

神について劣悪な観念しかもてない民族は悲惨である。旧約聖書でモーゼやエリヤが異教徒の神々を攻撃したのは、それらの神々が人身御供を要求するような劣悪な神だったからである。モーゼは警告して言った。「あなたの主なる神に対しては、彼ら(異教徒)と同じやり方で崇拝してはならない。彼らは主が憎まれ、嫌われるあらゆることを神々に行ったからである。彼らは自分たちの娘や息子さえ祭壇の火に生け贄として捧げたからである。」(申命記第十二章第三十一節)

哲学者ヘーゲルも言っている。「神について劣悪な概念をもつ民族は、また、劣悪な国家、劣悪な政治、劣悪な法律しかもてない」と。また、「人間が絶対的に自由であることを知らない諸民族は、その憲法上でも、またその宗教上でも陰鬱な生活をしている」と。

キツネやヘビを崇拝する宗教をいまだ脱しきれていない日本国民には、この哲学者ヘーゲル氏の言葉に耳を傾けて、その真偽を検証する価値と必要があるのではないだろうか。
by hosi111 | 2006-08-23 17:03 | 哲学一般