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法律家と精神分析家の貧しい哲学―――光市母子殺害事件

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弁護士や裁判官、また心理学者、精神分析学者たちの裁判に関する最近の法曹関係者の言動やまた判決などを読んでいると、どうも首を傾げざるを得ない場合が少なくない。先に最高裁判所が、検察の上告に対し広島高裁の判決を破棄し、審理を差し戻した「光市母子殺害事件」もそうである。高等裁判所の裁判官の判決に問題があったから、上級審の最高裁判所が審理のやり直しを命じたといえる。死刑廃止論を主義としているというこの少年犯罪者の弁護団たちの弁護内容にも疑問を感じる。

裁判官が教育カウンセラーになったり、精紳分析家になったり、福祉士になったり、人権論者になったりしては、裁判は裁判であることができない。裁判が裁判であるうるためには、裁判の正しい概念を確立しておかなければならない。このことは、裁判官のみならず弁護士や検察官たちにも、さらには精神鑑定者などを含めて法曹関係者がその職業的な義務を果たしてゆくために必要な前提としておかなければならないことである。また、弁護人の使命は犯罪者の人権の擁護であってもいいが、法律家の人権擁護は正義概念と矛盾するものであってはならず、裁判において重すぎることも軽すぎることもない「正しい刑罰」を期待することによってこそ、犯罪者の人間としての尊厳も真の人権も擁護できるのである。いたずらにただ刑罰は軽ければよいとする弁護人は「八百代言人」でしかない。

               ※ 裁判官の人間観

それにしても、裁判の概念や正義の概念は法律学そのものからは導き出されない。正しい人間観、正しい哲学から導き出されるものである。この根本的な前提を誤ると法律家は正しい判決を下すことができず、正義は損なわれ、国民大衆や被害者の正義感や道徳感情は傷つけられて、社会の倫理の基礎を損なうことになる。

西洋の裁判所の建物には、テミスの女神像が正義の女神として飾られている場合が多いらしい。この女神は帯で目隠しをし、右手に剣を帯び、そして左手には天秤を提げている。この女神像には深い真理が象徴されているのではないだろうか。正しい裁判観、正義観を持つ者のみが、この女神の象徴の謎を解くことができるのかも知れない。

女神が右手に剣を持つのはなぜか。剣は権威の象徴であろう。正義が剣をもって実行されるべきことを示している。女神が左手に天秤を提げているのはなぜか。それは、犯罪によって損なわれた正義が正しく回復されるためには、犯罪者によって損なわれた正義に等しい応報の刑罰が執行されなければならないことを示している。それによって、はじめてテミスの女神の持つ天秤の釣り合いが取れて、損なわれた正義が回復する。犯罪者に加えられる刑罰は、重すぎても軽すぎてもいけない。その犯罪の内容にふさわしい刑罰が、犯罪者自身に加えられてはじめて正義は回復し、被害者は癒され、また犯罪者自身も人間としての尊厳を回復する。

それでは正義の女神が帯で目隠しをしているのはなぜか。その理由はよくわからない。その理由を知っておられる方が読者におられれば教えていただきたいと思う。ただ、愚考するに、それは、正義を回復する場である裁判においては、感覚器官に惑わされてはならず、ただひたすら理性による論理の判断にのみ拠らなければならないことを示すためではないだろうか。

人間のみが裁判にかけられ刑罰を執行されるのはなぜか。「善悪についての正常な判断」のできない精神異常者や動物は裁判にはかけられない。犯罪は精神病者や心神耗弱者が起こすのではない。善悪を知る判断力をもった人間が起こすのである。犯罪は「正常な」精神能力をもった人間によって犯されるのである。

そして、この光市母子殺害事件やとくに多くの少年犯罪事件などで、判決に当たるべき裁判官や弁護人に見られる問題点は、彼らの刑罰観である。彼らにとっては、刑罰は犯罪によって失われた正義を回復して、天秤の平衡を回復するためではなく、刑罰の威嚇によって、社会を犯罪という災害から予防するためであったり、あるいは、刑罰という「教育」によって、犯罪者の人格を教育し矯正するためであったり、人権と称して犯罪者の権利を擁護するためであったりする。

そこには、テミスの女神が掲げている、失われた正義を刑罰によってその天秤の均衡を回復するという刑罰観、裁判意識はない。彼らのような刑罰観によっては被害者、遺族と社会大衆の正義感情は平衡を保つことができず、損なわれて傾いたままである。その正当な憤激は、正しく職務を遂行しない「法律の専門家」である裁判官や弁護人、さらには検察官に向けられることになる。

このたびの司法改革で、市民が裁判に参画するようになったことは、従前のわが国の裁判制度からすれば大きな進歩である。長期かつ多数の場合においては、市民や国民大衆のほうが、裁判官や弁護人などのいわゆる「法律の専門家」や、多くの市民の失笑を買って「精神分析学」なるものの信用をまったく失わせるような鑑定書を書く心理学者や大学教授たちにもまさって、裁判と正義の概念にかなった判断を示すものである。
by hosi111 | 2007-08-05 02:06 | 概念論