夕暮れのフクロウ2022-11-16T02:26:33+09:00hosi111すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。.......... ヘーゲル概念論の研究のために。Excite Blogヘーゲル『哲学入門』第二章 義務と道徳 第六十七節[人間愛について]http://anowl.exblog.jp/29419635/2022-11-15T23:05:00+09:002022-11-16T02:26:33+09:002022-11-16T02:11:29+09:00hosi111哲学一般
ヘーゲル『哲学入門』第二章 義務と道徳 第六十七節[人間愛について]
§67
Die Pflicht der allgemeinen Menschenliebe(※1) erstreckt sich näher auf diejenigen, mit welchen wir im Verhältnis der Bekanntschaft und Freundschaft stehen. Die ursprüngliche Einheit der Menschen (※2)muss freiwillig zu solchen näheren Verbindungen gemacht worden sein, durch welche bestimmtere Pflichten entstehen.{Freundschaft beruht auf Gleichheit der Charaktere, besonders des Interesses, ein gemeinsames Werk mit einander zu tun, nicht auf dem Vergnügen an der Person des Andern als solcher. Man muss seinen Freunden so wenig als möglich beschwerlich fallen. Von Freunden keine Dienstleistungen zu fordern, ist am Delikatesten. Man muss nicht sich die Sache ersparen, um sie Andern aufzulegen.)
第六十七節[人間愛について]
普遍的な人間愛 の義務は、知人や友情の関係にある人々に、より身近に向けられる。人類の根源的な一体性は、自由な意志によってそうした身近な結びつきへと造り上げられなければならない。そうした結びつきから、さまざまな義務が生まれてくる。(友情 は、人格の平等にもとづいており、とくに共通の仕事を一緒に行うことへの利害にもとづくものであり、相手の人格そのものに対する満足にもとづくのではない。人は友人たちにはできうるかぎり迷惑をかけないようにしなければならない。友人たちに奉仕を求めることがないのは、何より結構なことである。人は自分が楽をするために、他人に仕事を押しつけてはならない。)
※1
der allgemeinen Menschenliebe 普遍的な人間愛
こうした一節を見てもわかるように、ヘーゲル哲学がキリスト教を背景にしていることは疑いのないことである。この哲学はドイツ民族の宗教と倫理を母胎として、その結晶として生まれた。※2
Die ursprüngliche Einheit der Menschen 人類の根源的な一体性、一者性。
人間の一者性、一体性の認識は、人間の抽象的な思考能力から生まれてくる。万人同一な一般人として「私」を把握するのは思考である。個人を普遍の形式によって意識する。その根源的(ursprüngliche)な認識は、人間の「概念」として捉えられ、そこから、普遍的な「人類」意識が生じる。普遍の次元は思想の段階であるが、この抽象的な「人類」という認識は、マルクス主義の「労働者」などと同じく、往々にして「祖国」や「民族」や「国家」などの個別具体性と対立的に、ときには敵対的に二律背反的に捉えられる。そのことによってもたらされる結果は深刻である。
]]>ヘーゲル『哲学入門』第二章 義務と道徳 第六十三節[語ることと真実]http://anowl.exblog.jp/29393966/2022-10-05T16:06:00+09:002022-10-19T16:17:46+09:002022-10-19T16:11:09+09:00hosi111哲学一般
ヘーゲル『哲学入門』第二章 義務と道徳 第六十三節[語ることと真実]
§63Es setzt ein besonderes Verhältnis voraus, um das Recht zu haben, Jemand die Wahrheit über sein Betragen zu sagen. Wenn man dies tut, ohne das Recht dazu haben, so ist man insofern unwahr, dass man ein Verhältnis zu dem Andern aufstellt, welches nicht statt hat.
第六十三節[語ることと真実]誰かが自分の行動について真実を話す権利をもつためには、特別な関係にあることが前提となる。もし人が、そうした権利もないのに、真実を話すとすれば、その限りにおいて、その人は正しくない。と言うのも、特殊な関係にもない他者に対して、その人は一つの関係を設けているからである。
Erläuterung.説明Eines Teils ist es das Erste, die Wahrheit zu sagen, insofern man weiß, dass es wahr ist. Es ist unedel, die Wahrheit nicht zu sagen, wenn es an seinem rechten Orte ist, sie zu sagen, weil man sich dadurch vor sich selbst und dem Andern erniedrigt.
一面においては、真実であることを人が知っているかぎりにおいては、その真実を話すということ は、まず第一に大切なことである。真実を語ることが正しいところで人が真実を語らないとすれば、それは高尚なことではない。というのも人はそのことによって自分自身と他者に対して自己を貶めることになるからである。
Man soll aber auch die Wahrheit nicht sagen, wenn man keinen Beruf dazu hat oder auch nicht einmal ein Recht. Wenn man die Wahrheit bloß sagt, um das Seinige getan zu haben, ohne weiteren Erfolg, so ist es wenigstens etwas lieber flüssiges, denn es ist nicht darum zu tun, dass ich die Sache gesagt habe, sondern dass sie zu Stande kommt. Das Reden ist noch nicht die Tat oder Handlung, welche höher ist.
しかし、もし人が真実を語る義務もないところで、また、そうする権利をかって一度ももったこともないのであれば、人は真実を語る必要はない。もし人が自分の役割を果たすために、さらなる効用もないのに、ただ単に真実を語るとすれば、少なくともそれは 余計なこと であろう。
なぜなら、何か事柄について私が話したということは重要なことではなく、そうではなく、話したことのもたらす結果が重要だからである。話すことはまだなお行動でもなければ行為でもない。行動や行為は話すこと以上に高尚なことである。
— Die Wahrheit wird dann am rechten Ort und zur rechten Zeit gesagt, wenn sie dient, die Sache zu Stande zu bringen. Die Rede ist ein erstaunlich großes Mittel, aber es gehört großer Verstand(※1) dazu, dasselbe richtig zu gebrauchen.何か事柄が実現するのに役立つように、真実は正しい場所 と正しい 時 に語られるべきである。語ることは驚くべき偉大な手段である。しかし、正しく語るには優れた知性を必要とする。
※1話すこと、語ることは人間のみに与えられた驚くべく素晴らしい偉大な能力であり素質である。しかし、正しく語り、話すには優れた知性(großer Verstand)が必要である。
Verstand はここでは「知性」と訳したが、哲学においてはふつう「悟性」と訳される。
ヘーゲル哲学においては、この 「悟性 Verstand」 は 「理性 Vernunft」とならぶ根本的に重要な概念である。Verstand は ふつうの日本語では「分かる」こと、英語では「understand」に相当するが、それは「理解する」とか「物分かり」とか言われるように、人間の分析能力と深くかかわっている。人間の知覚によって「塩」は分析されて 、「辛く」もあり「白く」もあり「(その結晶は)立方形」でもあるものとして捉えられる。(「精神の現象学」)これは「悟性 Verstand」の能力、つまり判断能力(Urteil)によるものであるが、ここにおいてはじめて「個別」から「普遍」が出てくる。しかし、往々にして「悟性 Verstand」は、おのれが分断した一方のみをもって「真なるもの」と主張し、他方を否定する。「悟性 Verstand」はこうして、「抽象(普遍)の餌食」になる。たとえば、今は亡き憲法学者の奥平康弘氏などは「天皇制は民主主義とは両立しえない」などと主張して「皇室」を否定する。いずれにせよ、カントに代表される「啓蒙哲学」が「悟性 Verstand」の意義を明らかにしたことをヘーゲルは高く評価する一方において、その限界をも指摘し、それを克服するものとして、「理性 Vernunft」の概念を明らかにする。
]]>ヘーゲル『哲学入門』第二章 義務と道徳 第六十二節[意図と行為]http://anowl.exblog.jp/29393976/2022-10-03T16:18:00+09:002022-10-19T16:22:03+09:002022-10-19T16:22:03+09:00hosi111哲学一般
ヘーゲル『哲学入門』第二章 義務と道徳 第六十二節[意図と行為]
§62
Zur Unwahrhaftigkeit gehört auch vorzüglich, wenn das, was man meint, eine gute Absicht oder Gesinnung sein soll, dagegen, was man tut, etwas Böses ist. (Diese Ungleichheit zwischen der Gesinnung und dem, was die Handlung an sich ist, wäre wenigstens eine Ungeschicklichkeit, aber, insofern der Handelnde überhaupt Schuld hat, ist ein solcher, der Böses tut, dafür anzusehen, dass er es auch böse meint).※
第六十二節[意図と行為]
]]>ヘーゲル『哲学入門』第二章 義務と道徳 第五十、第五十一、第五十二節[家族について]http://anowl.exblog.jp/29214526/2022-05-30T18:12:00+09:002022-06-09T18:17:09+09:002022-06-09T18:15:03+09:00hosi111未分類
§50
Diese Gesinnung besteht näher darin, dass jedes Glied der Familie seine Wesen nicht in seiner eigenen Person hat, sondern dass nur das Ganze der Familie ihre Persönlichkeit ausmacht.
第五十節この(家族愛の)心情は、さらに詳しくいうと、家族の成員は自分たちの本質を、自分たちに固有の人格のうちにもつものではなく、むしろ、彼らの人格性を造り上げるのは、ただ家族の全体のみであるということに基づいている。
§51
Die Verbindung von Personen zweierlei Geschlechts, welche Ehe ist, ist wesentlich weder bloß natürliche, tierische Vereinigung, noch bloßer Zivilvertrag, sondern eine moralische Vereinigung der Gesinnung in gegenseitiger Liebe und Zutrauen, die sie zu Einer Person macht.
第五十一節婚姻という男女両性の人格の結びつきは、本質的には単なる自然的な、動物的な一体化でもなければ、また市民的な契約 でもなくて、むしろ相互の愛と信頼による心情の一つの道徳的な一体化であり、それらは一個の人格をつくるものである。(※1)
§52
Die Pflicht der Eltern gegen die Kinder ist: für ihre Erhaltung und Erziehung zu sorgen; die der Kinder, zu gehorchen, bis sie selbstständig werden, und sie ihr ganzes Leben zu ehren; die der Geschwister überhaupt, nach Liebe und vorzüglicher Billigkeit gegen einander zu handeln.
第五十二節
子供たちに対する親の義務 は、子供たちの 養育 と教育 に気を配ることである。子供らの義務 は 自分たちが独り立ちできるようになるまで、親に服従することであり、そしてまた両親をその全生涯にわたって尊敬することである。兄弟姉妹の義務 は一般に、お互いどうしが、愛とすぐれた公正さをもって行為することである。(※2)
]]>ヘーゲル『哲学入門』第二章 義務と道徳 第五十節、第五十一節、第五十二節 [家族について]http://anowl.exblog.jp/29204334/2022-05-30T02:04:00+09:002022-05-31T02:12:08+09:002022-05-31T02:07:52+09:00hosi111哲学一般
§50Diese Gesinnung besteht näher darin, dass jedes Glied der Familie seine Wesen nicht in seiner eigenen Person hat, sondern dass nur das Ganze der Familie ihre Persönlichkeit ausmacht.
第五十節この(家族愛の)心情は、さらに詳しくいうと、家族の成員は自分たちの本質を、自分たちに固有の人格のうちにもつものではなく、むしろ、彼らの人格性を造り上げるのは、ただ家族の全体のみであるということに基づいている。
§51Die Verbindung von Personen zweierlei Geschlechts, welche Ehe ist, ist wesentlich weder bloß natürliche, tierische Vereinigung, noch bloßer Zivilvertrag, sondern eine moralische Vereinigung der Gesinnung in gegenseitiger Liebe und Zutrauen, die sie zu Einer Person macht.
第五十一節婚姻という男女両性の人格の結びつきは、本質的には単なる自然的な、動物的な一体化でもなければ、また市民的な契約 でもなくて、むしろ相互の愛と信頼による心情の一つの道徳的な一体化であり、それらは一個の人格をつくるものである。(※1)
§52Die Pflicht der Eltern gegen die Kinder ist: für ihre Erhaltung und Erziehung zu sorgen; die der Kinder, zu gehorchen, bis sie selbstständig werden, und sie ihr ganzes Leben zu ehren; die der Geschwister überhaupt, nach Liebe und vorzüglicher Billigkeit gegen einander zu handeln.
第五十二節子供たちに対する親の義務 は、子供たちの 養育 と教育 に気を配ることである。子供らの義務 は 自分たちが独り立ちできるようになるまで、親に服従することであり、そしてまた両親をその全生涯にわたって尊敬することである。兄弟姉妹の義務 は一般に、お互いどうしが、愛とすぐれた公正さをもって行為することである。(※2)
]]>ヘーゲル『哲学入門』第二章 義務と道徳 第三十九節 [道徳と職業(特殊性)]http://anowl.exblog.jp/29070091/2022-01-24T16:29:00+09:002022-01-26T16:34:58+09:002022-01-26T16:31:47+09:00hosi111哲学一般
§39
Die Triebe und Neigungen sind: 1) an sich betrachtet, weder gut noch böse, d. h. der Mensch hat sie unmittelbar als Naturwesen. 2) Gut und böse sind moralische Bestimmungen und kommen dem Willen zu. Das Gute ist das der Vernunft Entsprechende. 3) Triebe und Neigungen können aber nicht ohne Beziehung auf den Willen betrachtet werden. Diese Beziehung ist nicht zufällig und der Mensch kein gleichgültiges Doppelwesen.
第三十九節[道徳と職業(特殊性)]
衝動と性癖は、1)それ自体としてみれば、善でも悪でもない。すなわち、人間は衝動と性癖を直接に生まれつきの自然本性としてもっている。2)善と悪は道徳的な規定であり意志に帰する。善は理性にかなったものである。3)しかし、衝動と性癖は意志との関係なくしては考えられない。この関係は偶然ではなく、人間は決して(意志と衝動や性癖とが)切り離された二重の存在ではない。
Erläuterung.
説明
Die Moralität hat den Menschen in seiner Besonderheit zum Gegenstande. Diese scheint zunächst nur eine Menge von Mannigfaltigkeiten zu enthalten, das Ungleiche, was die Menschen von einander unterscheidet. Wodurch aber die Menschen von einander unterschieden sind, ist das Zufällige, von der Natur und äußeren Umständen Abhängige. Im Besondern ist aber zugleich etwas Allgemeines enthalten. Die Besonderheit des Menschen besteht im Verhältnis zu andern. In diesem Verhältnis sind nun auch wesentliche und notwendige Bestimmungen. Diese machen den Inhalt der Pflicht aus.
道徳性は人間をその特殊性において対象とする。
このことは、さしあたっては、多様性の集合体のようにも見える。その中には人間を互に区別する不平等を含みもっている。しかし、人間を互いに区別するのは偶然性によってであり、その偶然は生まれつきと外部の環境に依存している。しかし、特殊性の中には同時に普遍的なものが含まれている。人間の特殊性は他者との関係の中にあるのであって、この関係の中にこそ、なおまた本質的にしてかつ必然的なさまざまな使命があり、これらが義務の内容を成している。
(※1)
Neigungen 性癖 と訳した。偏向、性向、傾向、気質などと訳される。「無くて七癖」
(※2)
kein gleichgültiges Doppelwesen.
gleichgültiges 切り離された
Doppelwesen. 二重の存在(本質)この個所を岩波文庫版の訳者である武市健人氏は「人間は二つを無関係にもつ両棲存在ではないのである」と訳している。
しかし、「Doppelwesen. 二重の存在(本質)」を「両棲存在」と訳しても、その意義は十分に明らかにならないのではないか。「Doppelwesen. 二重の存在(本質)」とは、人間の意識の自己内分裂とその結果として必然的に生じる意識の二重化(自意識)のことである。そのために、人間は生まれつきの衝動や性癖についても自らの意志と関係させ意識化するのである。この訳文から見ても武市健人氏には、ヘーゲル哲学の根本的な功績である「意識の自己内分裂」についての核心的な認識を十分に確立し得ていなかったことがわかる。
(※3)
Bestimmungen.
ここでは義務の内容を構成するところの「Bestimmungen」だから、「使命」と訳した。Bestimmungen. については、これまでもさまざまに考察している。ヘーゲル『哲学入門』序論 四[意志と行為] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/CJm6Ff など。
(※4)
この節では「人間の特殊性 Die Besonderheit」が主題になっているが、具体的には「職業」のことを考えればいいと思う。
職業は多様であり、そこにはさまざまな区別と不平等がある。職業は生まれつきや外部の環境によって決定される偶然的なものであるが、職業の特殊性には普遍的なものが含まれてある。
]]>ヘーゲル『哲学入門』第二章 義務と道徳 第三十八節 [理性と衝動について]http://anowl.exblog.jp/29070103/2022-01-17T16:37:00+09:002022-01-26T16:41:00+09:002022-01-26T16:39:14+09:00hosi111哲学一般
§38
Die Vernunft hebt die Unbestimmtheit auf, welche das angenehme Gefühl in Ansehung der Gegenstände hat, reinigt den Inhalt der Triebe von dem Subjektiven und Zufälligen und lehrt in Rücksicht auf den Inhalt das Allgemeine und Wesentliche des Begehrenswerten kennen, in Rücksicht auf die Form oder Gesinnung aber das Objektive oder das Handeln um der Sache selbst willen.
第三十八節[理性と衝動について]
理性 は(衝動が)対象について感じる快感の不確実性を取り去り、衝動の内容から主観的で偶発的なものを取り除く。そして、その内容については、普遍的なもの、および 欲望に値するだけの本質的なもの について認識することを教える。そして、形式もしくは心情をためには、しかし、客観的なもの、あるいは事柄それ自体のために行為することを教える。
Erläuterung.
説明
Zunächst geht der Verstand oder die Reflexion über das unmittelbare Vergnügen hinaus, verändert aber den Zweck oder das Prinzip nicht. Sie geht insofern nur über das einzelne Vergnügen hinaus, vergleicht die Triebe mit einander und kann also den einen dem andern vorziehen. — Indem sie nicht auf das Vergnügen als Einzelnes, sondern auf das im Ganzen geht, beabsichtigt sie Glückseligkeit. Diese Reflexion bleibt noch innerhalb des subjektiven Principes stehen und hat das Vergnügen noch zum Zwecke, aber nur das größere, vielfachere.
さしあたって、悟性もしくは反省は、直接的な満足については克服してゆくけれども、しかし、目的や原則については変えることはない。それらはただ、個人的な 満足を克服する限りにおいては衝動を互いに比較し、だから一方を他方よりも好むこともできる。--悟性や反省は、個人としての満足ではなく全体の 満足をめざすかぎりにおいては、幸福を目的としている。この反省はいまだ主観的な原則のうちに立ちとどまっており、なお満足を目的としているが、しかしただそれは、より大きな、多面的な満足を目的としているにすぎない。
Indem sie Unterschiede im Vergnügen macht und überhaupt an allen verschiedenen Seiten das Angenehme sucht, verfeinert sie das Rohe, Wilde und bloß Tierische des Vergnügens und mildert die Sitten und Gesinnungen überhaupt. Insofern also der Verstand sich mit den Mitteln, Bedürfnisse überhaupt zu befriedigen, beschäftigt, erleichtert er dadurch diese Befriedigung und erhält dadurch die Möglichkeit, sich höheren Zwecken zu widmen.
悟性と反省とは、満足のうちにさまざまな区別をつけ、そして一般的に、すべての区別された側面の上に好ましいものを求めることによって、反省は、洗練されない野生的なもの、そして単に動物的な満足にすぎないもの 純化し、そうして倫理や心情一般を和らげる。
— Auf der anderen Seite macht diese Verfeinerung der Vergnügungen den Menschen weichlicher indem er seine Kräfte auf so vielerlei Gegenstände verwendet, und sich so mannigfaltige Zwecke macht, welche durch das Unterscheiden ihrer verschiedenen Seiten immer kleiner werden, so wird seine Kraft überhaupt geschwächt, sich auf das Wesentliche mit seinem ganzen Geist zu richten. Wenn der Mensch das Vergnügen zum Zweck macht, so hebt er durch diese Reflexion den Trieb auf, darüber hinauszugehen und etwas Höheres zu tun. Das Vergnügen ist unbestimmt in Ansehung des Inhalts, weil es bei allen Gegenständen statt finden kann. Es kann bei ihm also insofern kein objektiver Unterschied, nur ein quantitativer gemacht werden. Der Verstand, die Folgen berechnend, zieht das größere dem kleineren vor.
他の側面において、この満足の洗練は人間をより柔弱にする。というのも人間は彼の力を多くの異なった対象に用いることによって、そして非常に多様な目的を作るから、彼らの力を様々な側面に区別することになり、その結果、彼の全精神をもって本質的なものに振り向けるはずの彼の力は一般的に弱められる。もし人間が満足を目的とする場合には、この反省によって衝動を捨て去り、それを乗り越えてさらに向こうへ進もうとし、そしてより高い何かを成し遂げようとする。(しかし)満足は全ての対象物に見出せるものであるから、満足の内容という点に関しては確定していない。だから満足においては何ら客観的な区別がなく、ただ一つの量的な 区別がなされるのみである。結果を打算に入れる悟性は、少ない満足よりも多い満足をより好む。
Die Vernunft hingegen macht einen qualitativen Unterschied, d. h. einen Unterschied in Ansehung des Inhalts.(※1) Sie zieht den würdigen Gegenstand des Vergnügens dem nichtswürdigen vor. Sie lässt sich also auf eine Vergleichung der Natur der Gegenstände ein. Insofern betrachtet sie nicht mehr das Subjektive als solches, nämlich das angenehme Gefühl, sondern das Objektive. Sie lehrt also, was für Gegenstände der Mensch um ihrer selbst willen zu begehren hat. Bei dem Menschen, dem seiner allgemeinen Natur halber so unendlich mannigfaltige Quellen des Vergnügens offen stehen, ist überhaupt die Richtung auf das Angenehme täuschend und er lässt sich durch diese Mannigfaltigkeit leicht zerstreuen, d. h. von einem Zweck abbringen, den er zu seiner Bestimmung machen sollte.
それに対して理性は 質的な 区別を行う。すなわち、その内容に関して区別をつける。
理性は満足についても価値のないものよりも価値のある満足の対象の方を優先する。だから理性は対象の本性をそれぞれ比較することについて 自らこだわる。この点で、理性はもはや主観的なもの、つまり快適な感覚(満足)ではなくて、客観的なものについて考える。理性はだから人間の(満足の)対象として何を自分自身のために欲求すべきかを教える。人間の一般的な本性として満足の源泉が無限に多様に開かれてある人間の場合には、一般的に快楽への志向は気まぐれであり、人間はこの多様性によって容易に気を散らされる。 言い換えれば、人間が自らの使命を果たさなければならない一つの目的から外らせてしまう。
Der Trieb des Angenehmen kann mit der Vernunft übereinstimmen, d. h. dass beide den nämlichen Inhalt haben, dass die Vernunft den Inhalt legitimiert. — In Ansehung der Form handelt der Trieb um des subjektiven Gefühls willen oder hat das Angenehme des Subjekts zum Zweck. Bei der Handlung um eines allgemeinen Gegenstandes willen ist das Objekt selbst der Zweck. Hingegen der Trieb des Angenehmen ist immer eigensüchtig.(※2)
快楽への衝動が理性と一致することはありうる。すなわち、快楽と理性の両方が同じ内容をもっていること、理性がその内容を正当化していることで、一致することはありうる。⎯⎯⎯⎯ 形式の観点からすれば、衝動は主観的な感情のために、あるいは主観的な快楽を目的としてふるまう。
普遍的な対象のために行為する場合においては、客観それ自体が目的である。それに対して、快楽への衝動はつねに利己的である。
§37
Diese Übereinstimmung (※1)ist als Vergnügen ein subjektives Gefühl und etwas Zufälliges das sich an diesen oder jenen Trieb und seinen Gegenstand knüpfen kann und worin ich mir nur als natürliches Wesen und nur als Einzelner Zweck bin.
Das Vergnügen ist etwas Subjektives (※2)und bezieht sich bloß auf mich als einen besondern. Es ist nicht das Objektive. Allgemeine, Verständige daran.
Es ist deswegen kein Maßstab oder keine Regel, womit eine Sache beurteilt oder gerichtet wird. Wenn ich sage, dass es mir eben so gefällt oder mich auf mein Vergnügen berufe, so spreche ich nur aus, dass die Sache für mich so gilt und habe dadurch das verständige Verhältnis mit Andern aufgehoben.
満足は主観的なものであり、そして特殊なものとして単に私にのみ関係している。だからそれは客観的なもの、普遍的なもの、悟性的なものではない。それゆえに、それは物事を判断したり裁定する基準でもなければ規範にもならない。私にとってそれがまさしくぴったりのお気に入りであるとか、私は全く満ち足りているとかいうときには、そこではただその事柄が私にのみ妥当することを私は言っているのみであり、そのことによって、他者との了解しあえる関係を放棄してしまっているのである。
Es ist zufällig seinem Inhalt nach, weil es sich an diesen oder jenen Gegenstand knüpfen kann, und weil es nicht auf den Inhalt ankommt, so ist es etwas Formelles.(※3) Auch seinem äußerlichen Dasein nach ist das Vergnügen zufällig, die Umstände vorzufinden. Die Mittel, welche ich dazu brauche, sind etwas Äußerliches und hängen nicht von mir ab. Zweites muss das Dasein, was ich durch die Mittel zu Stande gebracht habe, insofern es mir Vergnügen machen soll, für mich werden, an mich kommen. Dies aber ist das Zufällige. Die Folgen dessen, was ich tue, kehren darum nicht an mich zurück. Ich habe den Genuss derselben nicht notwendiger Weise. 満足はその内容からいえば、偶然的なものである。というのも満足はこれやあれやの対象に自らを結びつけることができるし、そして内容には関わらないから、だからそれは形式的なものである。また、満足というものは外にあるそこの具体物についてみても、状況しだいで見つけられる偶然的なものである。(第一に)私が満足のために必要とする手段は外的なものであって、私に依存していない。第二に、私が手段を通して手に入れた状況にあるそこに在る物は、それが私に満足をあたえるという点では、私のためになされ、私のものとならなければならない。しかし、この満足は偶然である。私が行ったことの結果はだから、必ずしも私の許にもたらされない。私は必然的なやり方で満足を享受しているわけではない。
— Das Vergnügen entspringt also aus zweierlei Umständen: erstens aus einem Dasein, das man vorfinden muss, was ganz vom Glück abhängt; und zweitens aus einem solchen, das ich selbst hervorbringe. Dies Dasein hängt zwar, als Wirkung meiner Tat, von meinem Willen ab, aber nur die Handlung als solche gehört mir, hingegen der Erfolg muss nicht notwendig auf mich zurückkommen, folglich auch nicht der Genuss der Handlung. In einer solchen Handlung, wie die des Decius Mus für sein Vaterland, liegt, dass die Wirkung derselben nicht auf ihn als Genuss zurückkommen sollte. Es sind überhaupt nicht die Folgen zum Prinzip der Handlung zu machen. (※4)Die Folgen einer Handlung sind zufällig, weil sie ein äußerliches Dasein sind, das von andern Umständen abhängt oder aufgehoben werden kann.
したがって、満足は二つの異なる状況から生まれてくる。まず第一に、人はそこにある或る物から満足を見つけ出さなければならないが、それはまったく幸運に依存しているということ。第二に、そうした或る物から、私は満足を自分で生み出さなければならないということである。そこにあるこれらの物は、確かに、私の行動の結果として、私の意志に係わるものであるが、しかし、このような行為のみが私のものであるのに対して、その結果は必ずしも私のものとなるのでもない。したがってまた、行為の結果を必ずしも享受することにもならない。
デキウス・ムス のように彼が祖国のためになしたこうした行為の中には、行為の因果が果実として必ずしも享受されるものではないという一例がある。一般的には 結果を行動の原則 とするべきではない。行為の結果は偶然的である。というのも、行為の結果は外にそこに在る物であるが、それは他のあれこれの状況に依存しているものであり、無効にされうるからである。※
プブリウス・デキウス・ムスPublius Decius Mus (紀元前340年、共和制ローマの執政官) - 市民のために借金の完済に取り組んだムスは、また自軍の勝利のために自らを生け贄に捧げた。古代ローマの伝説的英雄 ~Wikipedia
https://cutt.ly/cUf7q2R
Das Vergnügen ist ein Sekundäres, ein die Tat Begleitendes. Indem das Substantielle verwirklicht wird, so fügt sich das Vergnügen insofern hinzu, als man im Werke auch sein Subjektives(※5) erkennt. Wer dem Vergnügen nachgeht, sucht nur sich nach seiner Accidentalität. Wer mit großen Werken und Interessen beschäftigt ist, strebt nur die Sache an sich zur Wirklichkeit zu bringen. Er ist auf das Substantielle gerichtet, erinnert sich seiner darin nicht, vergibt sich in der Sache. Menschen von großen Interessen und Arbeiten pflegen vom Volke bedauert zu werden, dass sie wenig Vergnügen haben, d. h. dass sie nur in der Sache, nicht in ihrer Accidentalität leben.
満足は派生的なものであり、行動に付随するものである。実体的なものが実現されて、また人はその作品の中に自分の主観的なものを認めるときには、満足が得られるものである。満足を追い求める者は誰も、ただ偶然性を追い求めることになるだけである。偉大な作品や事業に携わる者は、それを実現させるために、ただその事柄にのみに自らを打ち込む。実体のあることに彼は集中し、そのことに自己を忘れてその事柄に身を委ねる。
偉大な功績と事業に身を捧げた人間は、それに対してわずかな満足しか得られなかったことで、すなわち、ただその事柄のうちにのみ生きてその偶然性のうちに生きなかったことで、民衆からは同情されることになる。
(※1)
前の第三十六節において
die Übereinstimmung des Äußern überhaupt mit seinen inneren Bestimmungen
外にあるもの一般と人間の内にある欲求との一致、このことにょって満足、充足がもたらされる。欲望、欲求 とは「感じられた矛盾」である。
(※2)
Das Vergnügen ist etwas Subjektives
第一に、満足は何よりも主観的なものである。ある物事に満足や充足を見いだせるかどうかは、個人の主観しだいである。「蓼食う虫も好き好き」ともいう。そこには普遍的で客観的な基準というものがないから、したがって、この領域では、他者との議論は成り立たない。
(※3)
第二に、満足は偶然的なものである。満足の対象は、あれやこれや何にでも見出せるものだし、そこには必然性はない。また、満足の対象はまず私の外にあるものに見出さなければならないし、それは偶然に存在するものである。また、満足の対象を私自身が造り出しうるものとしても、そこに必ずしも満足を見出せるとはかぎらない。
(※4)
Es sind überhaupt nicht die Folgen zum Prinzip der Handlung zu machen.
「一般的には結果を行為の原則とすべきではない」
満足や充足は偶然的なものであり、物事はやってみなければわからない場合が多い。
だから、往々にして、出来ないからやめておこうとか、世間で人気が得られるからやってみよう、とか考えがちである。
(※5)
偉大な事業を成し遂げ、大きな功績をあげうるためには、自己を忘れて一事に打ち込まなければならない。しかし、そのことによって、社会や祖国から必ずしも感謝されて報われるとはかぎらない。
]]> ヘーゲル『哲学入門』第二章 義務と道徳 第三十三節 [心情について]http://anowl.exblog.jp/28942816/2021-10-30T12:47:00+09:002021-10-31T12:50:31+09:002021-10-31T12:49:22+09:00hosi111哲学一般
§33
Das Recht lässt überhaupt die Gesinnung(※1) frei. Die Moralität dagegen betrifft wesentlich die Gesinnung und fordert, dass die Handlung aus Achtung vor der Pflicht geschehe. So ist auch das rechtliche Verhalten moralisch, insofern es die Achtung vor dem Rechte zum Beweggrunde hat.
第三十三節[心情について]
一般的に法律は心情については自由に任せる。それに対して道徳は本質的に心情に関わるものであり、義務に対する 敬意 から、その行為のなされることが求められる。同じように法的な行動もまた、それが法に対する敬意を動機とするかぎりにおいては、道徳的である。
※1
die Gesinnung
(個人のもつ根本的な)物の考え方、心的態度、心根、心情、志操
主義、などと訳されている。(小学館独和大辞典)人間の成人の心情は言語と結びついており、精神の自己内分裂を根底にもっている点において、動物や幼児のそれとは根本的に異なって、心情は直ちに行為には直結しない。
人間の心情は反省を媒介とするゆえに、偽ることもできる。
道徳的な行為は心情にもとづいていることが求められるが、法律的な行為は必ずしも心情と一致していることは求められない。ただ義務という心情を動機としているかぎりにおいては、法律的な行為も道徳的である。
]]>ヘーゲル『哲学入門』第二章 国家社会 第二十八節 [国家体制(憲法)について]http://anowl.exblog.jp/28658936/2021-06-02T22:51:00+09:002021-06-06T10:26:44+09:002021-06-05T22:54:44+09:00hosi111哲学一般
Die allgemeine Staatsgewalt enthält verschiedene besondere Gewalten unter sich subsumiert: 1) die gesetzgebende überhaupt; 2) die administrative und finanzielle, sich die Mittel zur Verwirklichung der Freiheit zu schaffen; 3) die (unabhängige) richterliche und polizeiliche; 4) die militärische und die Gewalt, Krieg zu führen und Frieden zu schließen.
普遍的な国家権力は自らの下にさまざまな特殊な権力を従属させて含んでいる。1)法制定権力一般、
2)行政上および財政上の権力、自由を実現するための手段を作り出すもの、
3)(独立した)司法 と警察の権力、
4)軍事的な権力。および 戦争を開始し、かつ和平を締結する 権力。
Erläuterung.
Die Art der Verfassung(※1)hängt vornehmlich davon ab, ob diese besonderen Gewalten unmittelbar von dem Mittelpunkt der Regierung ausgeübt werden; ferner, ob mehrere davon in einer Autorität vereinigt oder aber ob sie getrennt sind; z. B. ob der Fürst oder Regent selbst unmittelbar Recht spricht oder ob eigene, besondere Gerichtshöfe angeordnet sind;
説明
憲法(国家体制)の種類は、主として以下のような事柄によって区別される。つまり、
これらの特殊な権力が政府の中枢によって直接行使されるかどうか、さらにいえば、それら多くの権力が一つの権威に統一されているかどうか、あるいはしかし、それらが分割されているかどうか、などによって区別される。たとえば、領主もしくは支配者自身が直接に裁定するかどうか、あるいはまた、別個に特別法廷が命じられているのかどうか、
ferner, ob der Regent auch die kirchliche Gewalt in sich vereinigt u. s. f. Es ist auch wichtig, ob in einer Verfassung der oberste Mittelpunkt der Regierung die Finanzgewalt in unbeschränktem Sinne in Händen hat, dass er Steuern ganz nach seiner Willkür sowohl auflegen als verwenden kann. Ferner, ob mehrere Autoritäten in Einer vereinigt sind, z. B. ob in Einem Beamten die richterliche und die militärische Gewalt vereint sind.
さらには、また支配者が教会権をも自らの手中にしているか、等々。一つの国家体制(憲法)において、政府の最高の中枢が徴税権を無制限に手中にしているかどうかもまた重要である。そうであれば、政府はまったくその思うままに税金を徴収することも使用することもできる。さらには、さまざまな官庁が一つに統合されているかどうか、たとえば、司法権と軍事権が一つの官職に統合されているかどうか、といったこともまた重要である。
Die Art einer Verfassung ist ferner dadurch bestimmt, ob alle Bürger, insofern sie Bürger sind, Anteil an der Regierung haben. Eine solche Verfassung ist eine Demokratie. Die Ausartung derselben ist die Ochlokratie oder die Herrschaft des Pöbels, wenn nämlich derjenige Teil des Volkes, der kein Eigentum hat und von unrechtlichen Gesinnungen ist, die rechtlichen Bürger mit Gewalt von Staatsgeschäften abhält. Nur bei einfachen, unverdorbenen Sitten und einem kleinen Umfange des Staates kann eine Demokratie stattfinden und sich erhalten.
国家体制(憲法)の種類は、すべての市民が、市民である限りにおいて政府に参画するかどうか、によっても決定される。そのような国家体制(憲法)は 民主政体 である。民主政体の劣化したものが 衆愚政治 であり賎民の独裁である。すなわちそれらは、なんら財産を持たず、また不逞な心情をもつ人々たちの一部の者が、暴力をもって合法的な市民を国政から排除するような場合である。民主政体は、質朴でいまだ堕落していない風紀のもとで、国家の小さな領域においてのみ行なわれ、また維持することができる。
— Die Aristokratie ist die Verfassung, in welcher nur einige gewisse privilegierte Familien das ausschließende Recht zur Regierung haben. Die Ausartung derselben ist die Oligarchie, wenn nämlich die Anzahl der Familien, die das Recht zur Regierung haben, von kleiner Anzahl ist. Ein solcher Zustand ist deswegen gefährlich, weil in einer Oligarchie alle besonderen Gewalten unmittelbar von einem Rath ausgeübt werden.
貴族政体 とは、若干の特定の特権をもつ家柄だけが独占的な支配権をもつような国家体制である。その変種が寡頭政体 である。すなわち、いくつかのわずかな家柄だけが支配権をもつような場合である。こうした状況はしたがって危険である。というのも、寡頭政体においては、すべての特殊な権力は一つの評議のみで直接に行使されるからである。
— Die Monarchie ist die Verfassung, in welcher die Regierung in den Händen eines Einzelnen ist und erblich in einer Familie bleibt. In einer Erbmonarchie fallen die Streitigkeiten und bürgerlichen Kriege weg, die in einem Wahlreich bei einer Thronveränderung stattfinden können, weil der Ehrgeiz mächtiger Individuen sich keine Hoffnung zum Thron machen kann. Auch kann der Monarch die ganze Regierungsgewalt nicht unmittelbar ausüben, sondern vertraut einen Teil der Ausübung der besondern Gewalten Kollegien oder auch Reichsständen an, die im Namen des Königs, unter seiner Aufsicht und Leitung, die ihnen übertragene Gewalt nach Gesetzen ausüben.
君主政体 とは、政府が一つの個別者の手中にあり、一つの家柄によって世襲される国家体制である。世襲君主制 においては、たとい有力な一個人のどのような野心においても王位を手にする希望をもてないために、選挙公国 において王位の変更にともなって発生する可能性のある紛争や内戦が起こらない。むしろ君主は政府の全権限を直接に行使することはできないのであり、特殊な権力の行使はその一部は国会議員や政府官僚に委託され、彼らは自分たちに委託された権力を君主の名の下において、君主の監督と指揮のもとに法律にしたがって行使する。
In einer Monarchie ist die bürgerliche Freiheit mehr geschützt, als in andern Verfassungen. Die Ausartung der Monarchie ist der Despotismus, wenn nämlich der Regent nach seiner Willkür die Regierung unmittelbar ausübt. Der Monarchie ist es wesentlich, dass die Regierung gegen das Privatinteresse der Einzelnen Nachdruck und gehörige Gewalt hat.
Aber auf der andern Seite müssen auch die Rechte der Bürger durch Gesetze geschützt sein.
(※2)
君主政体においては、他の国家体制(憲法)よりも、市民の自由がはるかに多く保護されている。君主政体の劣化した形が 専制政治 であって、すなわち、権力者が彼の恣意にしたがって直接に統治するような場合である。君主政体においては、政府が個人の私的利益を抑制する正当な権力をもっていることは本質的であるけれども、しかし、その他方でまた、市民の権利は法律によって保護されていなければならない。
Eine despotische Regierung hat zwar die höchste Gewalt, aber in einer solchen Verfassung werden die Rechte der Bürger aufgeopfert. Der Despot hat zwar die größte Gewalt und kann die Kräfte seines Reichs nach Willkür gebrauchen. Aber dieser Standpunkt ist auch der gefährlichste.
独裁政権はたしかに最高権力をもってはいるが、しかし、そのような国家体制においては、市民の権利が犠牲にされることになる。
独裁者はたしかに最大の権力をもっており、かつ彼は自分の帝国の力を自由に使うこともできる。しかし、この状況はまた もっとも危険なもの である。
— Die Regierungsverfassung eines Volkes ist nicht bloß eine äußerliche Einrichtung. Ein Volk kann eben so gut diese als eine andere Verfassung haben. Sie hängt wesentlich von dem Charakter, den Sitten, dem Grade der Bildung, seiner Lebensart und seinem Umfange ab.
⎯ 民族の統治体制は単なる外的な制度ではない。民族はある国家体制(憲法)をもつことのできるように、同じく他の国家体制(憲法)も選ぶこともできる。民族がどのような国家体制(憲法)を選ぶかは、その民族の性格、習俗、教育の程度、その生活様式、そして、その領土によって根本的に左右される。
(※1)
die Verfassung ふつう「憲法」と訳される場合が多い。ここでは「国家体制」「国体」の意に訳した。
verfassen verb 書く、作る、作成する、綴る、起草する
Konstitution 法規、憲法
憲法の性格を考える上で、die Verfassung と die Konstitution の概念のちがいを認識しておくことは重要だと思われる。以前に論考で、大日本帝国憲法は die Verfassung に近く、現行日本国憲法は die Konstitution の概念に近いものとして論じたことがある。真実の憲法は「理性的な憲法」すなわち「自然憲法 die Verfassung」でなければならない。
自然憲法(Verfassung)と実定憲法(Konstitution)
(※2)
この第二十八節において、ヘーゲルは国家権力の行使形態のちがいを、国家体制(憲法)の類別として論じるなかで、「立憲君主国家体制」こそが他の国家体制と比べても「市民の自由」をもっとも保護するものであると述べている。
「立憲君主国家体制」の歴史的意義とその理念についての詳細な説明は、もちろん『法の哲学』の「第三章 国家」以下の記述を参考にしなければならない。『哲学入門』の第28節に該当する個所は、『法の哲学』においては「第272節 国内国家体制」以降であり、さらに「第275節 a 君主権」についても詳細に論じられている。
それら該当する個所のいくつかの節については、これまでにも翻訳と註解を試みたことがある。『法の哲学』ノート§272(国家体制、憲法)
http://anowl.exblog.jp/8428820
『法の哲学』ノート§273(国家体制、憲法2)
http://anowl.exblog.jp/8437531/法の哲学
2) Der Besitz muss ergriffen werden, d. h. es muss für die Anderen erkennbar gemacht werden, dass ich diesen Gegenstand unter meinen Willen subsumiert haben will, es sei durch körperliche Ergreifung, oder durch Formierung, oder wenigstens durch Bezeichnung des Gegenstandes.(※1)
Der äußerlichen Besitzergreifung muss der innerliche Willensakt vorangehen, welcher ausdrückt, dass die Sache mein sein soll. Die erste Art der Besitznahme ist die körperliche Ergreifung. Sie hat den Mangel, dass die zu ergreifenden Gegenstände so beschaffen sein müssen, dass ich sie unmittelbar mit der Hand ergreifen oder mit meinem Körper bedecken kann und ferner, dass sie nicht fortdauernd ist.
— Die zweite vollkommenere Art ist die Formierung, dass ich einem Dinge eine Gestalt gebe, z. B. einen Acker bebaue, Gold zu einem Becher mache. Hier ist die Form des Meinigen unmittelbar mit dem Gegenstande verbunden und daher an und für sich ein Zeichen, dass auch die Materie mir gehöre. Zur Formierung gehört unter Anderem auch das Pflanzen von Bäumen, das Zähmen und Füttern von Tieren.
Eine unvollkommene Art des Landbesitzes ist die Benutzung eines Distriktes ohne seine Formierung, z. B. wenn nomadische Völker ein Gebiet zur Viehweide, Jägervölker zur Jagd, Fischervölker den Strand eines Meeres oder Flusses benutzen. Eine solche Besitznahme ist noch oberflächlich, weil die wirkliche Benutzung nur erst eine temporäre, noch nicht auf bleibende, an dem Gegenstand haftende Weise ist.
— Die Besitznahme durch die bloße Bezeichnung des Gegenstandes ist unvollkommen. Das Zeichen, das nicht, wie in der Formierung, zugleich die Sache selbst ausmacht, ist ein Ding, das eine Bedeutung hat, die aber nicht sein eigenes Wesen ist und wogegen es sich also als ein fremdes verhält. Aber es hat auch sonst eine ihm eigene Bedeutung, welche nicht mit der Natur des durch es bezeichneten Dinges selbst zusammenhängt. Die Bezeichnung ist also willkürlich. Von was ein Ding Zeichen sein soll, ist mehr oder weniger die Sache der Konvenienz.
Der moralische Wille in Rücksicht auf die Gesinnung ist unvollkommen. Er ist ein Wille, der das Ziel der Vollkommenheit hat, aber: 1) wird er zur Erreichung desselben auch durch die Triebfeder der Sinnlichkeit und Einzelheit getrieben; 2) hat er die Mittel nicht in seiner Macht und ist daher, das Wohl Anderer zu Stande zu bringen, beschränkt.
In der Religion hingegen betrachtet man das göttliche Wesen, die Vollendung des Willens, nach seinen beiden Seiten, nämlich nach der Vollkommenheit der Gesinnung, die keine fremdartigen Triebfedern mehr in sich hat, und alsdann nach der Vollkommenheit der Macht, die heiligen Zwecke zu erreichen.(※1)
Nach dem Recht ist der Mensch dem Menschen Gegenstand als ein absolut freies Wesen; nach der Moral hingegen als ein einzelnes nach seinem besonderen Dasein als Familienglied, als Freund, als ein solcher Charakter u. s. f. Wenn die äußeren Umstände, in denen der Mensch mit Anderen steht, so beschaffen sind, dass er seine Bestimmung erfüllt, so ist das sein Glück. Eines Teils steht dieses Wohl in der Macht seines Willens, andern Teils hängt es von äußeren Umständen und anderen Menschen ab.
二十四〔道徳の対象とその限界〕
法律からみれば、人間は絶対的に自由な存在として、人間の対象となる。これに対して、道徳からみれば、人間は家族の一員としてとか、友人として等々のそうした性格をもったものとして、その特殊なあり方にしたがって人間の対象となる。人間が他者と関係するなかで、もしその外部の状況が、その人間の適性にかなったものであるなら、それは彼の幸運である。この幸福は、一面においては彼の意志の力のうちにあり、他面においては、外部の状況や他の人々に依存している。
Die Moral hat den Menschen auch nach seinem besonderen Dasein oder nach seinem Wohl zum Gegenstande und fordert nicht nur, dass der Mensch in seiner abstrakten Freiheit gelassen, sondern auch dass sein Wohl befördert werde. — Das Wohlsein als die Angemessenheit des Äußeren zu unserm Inneren nennen wir auch Vergnügen. Glückseligkeit ist nicht nur ein einzelnes Vergnügen, sondern ein fortdauernder Zustand, zum Teil des wirklichen Vergnügens selbst, zum Teil auch der Umstände und Mittel, wodurch man immer die Möglichkeit hat, sich, wenn man will, Vergnügen zu schaffen. Das Letztere ist also das Vergnügen der Vorstellung.
In der Glückseligkeit aber wie im Vergnügen liegt der Begriff des Glückes, dass es zufällig ist, ob die äußeren Umstände den inneren Bestimmungen der Triebe angemessen sind. Die Seligkeit hingegen besteht darin, dass kein Glück in ihr ist, d. h., dass in ihr die Angemessenheit des äußeren Daseins zum inneren Verlangen nicht zufällig ist. Seligkeit kann nur von Gott gesagt werden, in welchem Wollen und Vollbringen seiner absoluten Macht dasselbe ist. Für den Menschen aber ist die Übereinstimmung des Äußeren zu seinem Inneren beschränkt und zufällig. Er ist darin abhängig.(※1)
]]>ヘーゲル『哲学入門』序論についての説明 二十三〔法と道徳について〕http://anowl.exblog.jp/27979739/2020-02-22T15:05:00+09:002020-02-22T19:48:16+09:002020-02-22T19:08:02+09:00hosi111哲学一般
Recht und Moral sind von einander unterschieden. Es kann, dem Rechte nach, etwas sehr wohl erlaubt sein, was die Moral verbietet. Das Recht z. B. erlaubt mir die Disposition über mein Vermögen auf ganz unbestimmte Weise, allein die Moral enthält Bestimmungen, welche dieselbe einschränken. Es kann scheinen, als ob die Moral Vieles erlaubt, was das Recht nicht erlaubt, allein die Moral fordert nicht nur die Beobachtung des Rechts gegen Andere, sondern setzt zum Recht vielmehr die Gesinnung hinzu, das Recht um des Rechtes willen zu respektieren. Die Moral fordert selbst, dass zuerst das Recht beobachtet werde und da, wo es aufhört, treten moralische Bestimmungen ein.(※1)
二十三〔法と道徳について〕
法と道徳は互いに区別される。道徳が禁じていることであっても、法律によれば許されるといったことは、よくあることである。法が、たとえば、私の財産をまったく好き勝手なやり方で処分することを認めているとしても、しかし、その同じことを道徳においてはさまざまに制限する規範があるなど。道徳は法律では許されていない多くのことを許しているように見える。しかしながら、道徳は他者に対して法の遵守を要求するのみでなく、むしろ、なおそれ以上に、法のために法を尊重する心情をもつちかうものである。道徳は自ら、まず法律の守られることを要求するが、その法律の途絶えるところに、道徳のさまざまな規定が入り込んでくるのである。
Damit eine Handlung moralischen Werth habe, ist die Einsicht notwendig, ob sie recht oder unrecht, gut oder böse sei. Was man Unschuld der Kinder oder unzivilisierter Nationen nennt, ist noch nicht Moralität. Kinder oder solche Nationen unterlassen eine Menge böser Handlungen, weil sie noch keine Vorstellung davon haben, weil überhaupt noch nicht die Verhältnisse vorhanden sind, unter welchen allein solche Handlungen möglich werden; solches Unterlassen böser Handlungen hat keinen moralischen Werth. Sie tun aber auch Handlungen, die der Moral gemäß und deswegen doch nicht gerade moralisch sind, insofern sie keine Einsicht in die Natur der Handlung haben, ob sie gut oder böse.(※2)
ある行為が道徳的な価値をもつためには、その行為が正しいか不正であるか、善であるか悪であるかについての判断力が必要である。人々が子供や未開の民族の無邪気さと呼んでいるものは、いまだなお道徳ではない。子供たちやそうした未開の民族が多くの悪しき行為をなさないのは、彼らがまだ行為についての判断力をもたないからであり、ただ一般に道徳的な行為が可能であるような状況に置かれていないからである。;悪しき行為をこのように行わないことには何ら道徳的な価値はない。しかしまた、彼らが道徳に適った行為もするし、さらにまた反対に必ずしも道徳的ではない行為も行うのも、その行為の性質が善であるのか悪であるのかどうか、彼らは判断力をもたないからである。
Der eigenen Überzeugung steht der bloße Glaube auf die Autorität Anderer entgegen. Wenn meine Handlung moralischen Werth haben soll, so muss meine Überzeugung damit verknüpft sein. Die Handlung muss im ganzen Sinn die meinige sein. Handle ich aber auf die Autorität Anderer, so ist sie nicht völlig die meinige; es handelt eine fremde Überzeugung aus mir. Es gibt aber auch Verhältnisse, in denen es die moralische Seite ist, gerade aus Gehorsam und nach Autorität Anderer zu handeln. Ursprünglich folgt der Mensch seinen natürlichen Neigungen ohne Überlegung oder mit noch einseitigen, schiefen und unrichtigen, selbst unter der Herrschaft der Sinnlichkeit stehenden Reflexionen. In diesem Zustand muss er gehorchen lernen, weil sein Wille noch nicht der vernünftige ist. Durch dies Gehorchen kommt das Negative zu Stande, dass er auf die sinnliche Begierde Verzicht tun lernt und nur durch diesen Gehorsam gelangt der Mensch zur Selbstständigkeit.(※3)
自己の確信に対立するものは、他人の権威に対する単なる信仰である。もし私の行為が道徳的な価値をもちうるとすれば、私の確信と結びついていなければならない。行為は全き意味において私のものでなければならない。しかし、私が他人の権威にもとづいて行動するなら、その行動は全く私のものではない。他人の確信が私をとおして働いているのである。しかし、従順さから、そして、他人の権威に従って行為することが、まさに道徳的な趣をもつような状況もある。そもそも生まれついて人間は思慮の欠いたその自然の傾向から、あるいは、なお一方的で歪んだ、正しくない感性に自ら隷属した反省に追従する。この状態においては、いまだなお彼の意志は理性的ではないから、彼は服従することを学ばなければならない。この服従を通して、自己否定の立場に至って、そうして彼は肉体的な欲望を抑制することを学ぶ。そうして、ただこの服従を通してのみ、人間は自立性を獲得する。
Er folgt in dieser Sphäre immer einem Anderen, ebensosehr, wenn er seinem eigenen, im Ganzen noch sinnlichen Willen, oder dem Willen eines Anderen gehorcht. Als Naturwesen steht er eines Teils unter der Herrschaft äußerlicher Dinge, andererseits aber sind diese Neigungen und Begierden etwas Unmittelbares, Beschränktes, Unfreies oder ein Anderes, als sein wahrhafter Wille.(※4)
人間はこの道徳の領域ではつねに他者に追従している。自分自身に固有の意志や、なお身体からくる欲望の意志においては完全に、まったく同じように他者の意志に追従している。自然の存在として人間は、部分的には外部の事物の支配されており、しかし、他面においては、これらの傾向や欲求は、直接的なもの、制限されたもの、不自由なものであり、あるいはまた、人間の真実の意志とは別のものである。
Der Gehorsam gegen das Gesetz der Vernunft ist Gehorsam in Beziehung auf meine unwesentliche Natur, welche unter der Herrschaft eines für sie Anderen steht. Allein auf der anderen Seite ist er selbstständige Bestimmung aus sich selbst, denn eben dieses Gesetz hat seine Wurzel in meinem Wesen. Die Gesinnung ist also bei der Moral ein wesentliches Moment. Sie besteht darin, dass man die Pflicht tut, weil es sich so gehört.
理性とは異なった他のものに支配されている私の非本質的な性向と結びついているような服従は、理性の法則に反する服従である。けれども他面において、服従には自己みずから自主独立してゆく役割がある。というのも、この原理はまさに私の本質に根拠をもっているからである。したがって心情は道徳においては本質的な要素である。人々が義務を果たすのはそれが正しいことだからというところに、心情は立脚している。
Es ist also eine unmoralische Gesinnung, etwas aus Furcht vor der Strafe oder deshalb zu tun, um bei Andern eine gute Meinung von sich zu erhalten. Dies ist ein heterogener, d. i. fremdartiger Beweggrund, denn es ist nicht der Grund der Sache selbst oder man betrachtet alsdann das Recht nicht als etwas, das an und für sich selbst ist, sondern als etwas, das von äußerlichen Bestimmungen abhängig ist.
したがって、何か刑罰への恐れからや、あるいは、自分について他人からよく思ってもらおうとして何かをするといったことは、非道徳的な心情である。これは異様な、いいかえれば、不純な動機である。というのも、それは事柄そのものを根拠とはしないからであり、あるいは、人々はそこでは法を本来的なものとして、そして、それ自体のため存在するものとは考えないからであり、むしろ、外的な状況に左右されるようなものと考えているからである。
Dennoch ist die Betrachtung, ob Strafen oder Belohnungen auf eine Handlung gesetzt sind, wenn gleich die Folgen nicht den Werth der Handlung ausmachen, von Wichtigkeit. Die Folgen einer guten Handlung können oft vieles Üble nach sich ziehen, eine böse Handlung hingegen kann unter ihren Folgen auch gute haben. — Überhaupt aber an die Folgen der Handlung zu denken, ist deswegen wichtig, weil man dadurch nicht bei dem unmittelbaren Gesichtspunkte stehen bleibt, sondern darüber hinausgeht. Durch ihre mehrseitige Betrachtung wird man auch auf die Natur der Handlungen geleitet.(※5 )
それにもかかわらず、ひとつの行為に対してどのような罰則や報償が定められているかを考えることは、たといただちに、その行為の価値をつくりだすものではなくとも、重要なことである。善い行為に結果としてしばしば多くの悪しきことがもたらされることはよくあることである。これとは反対に、悪しき行為に結果として善いことがもたらされることもまたありうる。⎯⎯ しかしそれゆえにこそ、一般的には、行為の結果を考えることは本来的に大切である。というのも、それによって人々は直接的な観点にとどまることなく、むしろ、それを克服してゆくからである。それら多くの多面的な考察を通して、人々はまた行為の本質(についての洞察)に導かれるようになる。
Der Mensch ist ein freies Wesen. Dies macht die Grundbestimmung seiner Natur aus. Außerdem aber hat er noch andere notwendige Bedürfnisse, besondere Zwecke und Triebe, z. B. den Trieb zum Erkennen, zur Erhaltung seines Lebens, seiner Gesundheit u. s. f. Das Recht hat den Menschen nicht zum Gegenstand nach diesen *besondern* Bestimmungen. Es hat nicht den Zweck, ihn nach denselben zu fördern oder ihm eine besondere Hülfe darüber zu leisten.
二十二〔普遍的な意志(法)について〕
人間は自由な存在である。これは人間の本性についての根本的な規定である。しかし、そのほかにも人間はなお他の欠くことのできない欲望を、特殊な目的や衝動をもっている。たとえば、認識の衝動とか、人間の生命や健康を保存しようとする衝動など。法は、これらの 特殊な 規定については人間を対象としない。法はそれら特殊な規定を人間にうながしたり、あるいは、それらについて人間に特別な援助を与えたりするといった目的はもたない。
Zweitens. Das Recht hängt nicht ab von der *Absicht,* die man dabei hat. Man kann etwas tun mit einer sehr guten Absicht, aber die Handlung wird dadurch nicht rechtlich, sondern kann demohngeachtet(※1) widerrechtlich sein. Auf der anderen Seite kann eine Handlung, z. B. die Behauptung meines Eigentums, vollkommen rechtlich und doch eine böse Absicht dabei sein, indem es mir nicht bloß um das Recht zu tun ist, sondern vielmehr darum, dem Anderen zu schaden. Auf das Recht als solches hat diese Absicht keinen Einfluss.
第二に、法は人がその際にもつ 意図 とは関係がない。人はとても良い善意をもって何かをすることができるが、しかし、そのことによってその行為が合法にはならない。むしろ、それにもかかわらず、違法とされることもありうる。一方、一つの行為が、たとえば、それが私に対する権利だけを目的とするのではなく、むしろ、さらに他者を傷つけることを意図する場合のように、たとい私の所有権の主張が完全に合法であっても、なおそこに悪意の存在することもありうる。こうした意図の有無は、法律そのものにはまったくかかわりがない。
Drittens. Es kommt nicht auf die *Überzeugung* an und für sich, ob das, was ich zu leisten habe, recht oder unrecht sei. Dies ist besonders der Fall bei der Strafe. Man sucht den Verbrecher wohl zu überzeugen, dass ihm Recht widerfahre. Doch hat diese Überzeugung oder Nichtüberzeugung keinen Einfluss auf das Recht, das ihm angetan wird. —
第三に。私の為すべきことが合法か違法かについての 信念 も本来的に関係がない。このことは、とくに刑法の場合がそうである。人はたしかに犯罪者に対して、法の課せられることを納得させようとする。だが、彼が納得するか、あるいは納得しないかは彼に適用される法にはまったく影響がない。⎯
Endlich kommt es dem Recht auch nicht auf die *Gesinnung* an und für sich, mit der etwas vollbracht wird. Es ist sehr oft der Fall, dass man das Recht bloß tut aus Furcht vor der Strafe oder aus Furcht vor anderen unangenehmen Folgen überhaupt, z. B. seinen guten Ruf, seinen Credit zu verlieren. Oder man kann auch, sein Recht erfüllend, die Gesinnung dabei haben, im anderen Leben dafür belohnt zu werden. Das Recht aber als solches ist von diesen Gesinnungen unabhängig.
最後に、あることを遂行するときの 心情 もまた法とは本来的に関係がない。たんに人が刑罰の恐怖から法を守ることや、あるいは、その他の概して不快な結果を、たとえば、彼のよき名声や彼の信用をそこない失うことを恐れて、法を守るといったことは非常に往々にしてあることである。あるいはまた、人は来世において報われようという気持ちから法を守ることもありうる。しかし、法そのものはこれらの心情とは何のかかわりもない。
(※1)
demohngeachtet 意味不明。un ge achtet なら「それにもかかわらず」
(※2)
前の第二十一節で、人間の生まれついての衝動や欲望から生じる意志について、それらは自然の衝動や性向から自らのあり方を決める意志として、恣意や気まぐれなど有限なものと関係をもつ特殊な意志について論じられた。
この第二十二節において、そうした特殊な意志と普遍的な意志である法との関係が考察される。
普遍的な意志(すなわち法)は、そうした人間の自然の衝動や欲望を、恣意や気まぐれを対象とはしない。個人の特殊な内心の「意図 Absicht」や「信念 Überzeugung」 、「心情 Gesinnung」 にもかかわりがない。そうした人間の内的な特殊な意志ではなく、法は外的な客観的で普遍的な、社会的な意志にかかわる。