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朝日新聞における文章修行 脳科学者の茂木健一郎氏が朝日新聞の文章批判をおこなっていることを、池田信夫氏のブログで 知りました。文章を書くうえで、「他山の石」とすべきかとも思い、記録しておきます。果たして朝日新聞の論考が本当に受験小論文の練習に参考になるので しょうか。論理的な文章、科学的な文章はどうあるべきかについて、さらに考えてゆきたいと思います。こうした記事が多くの人に読まれて、日本国民の国語 能力がより高まってゆくことを期待したいものです。 >><< 2012年9月27日(木)付 朝日新聞 http://www.asahi.com/paper/column.html 天声人語 3年前の秋、自民党は落ち武者集団を見るようだった。政権を明け渡し、「自民党という名が国民に嫌われている」と党名を変える動きもあった。「和魂党」やら「自由新党」やら、まじめに考えていたらしい▼支援団体は離れ、陳情は減り、食い慣れぬ冷や飯のせいか無気力と自嘲さえ漂った。その斜陽から、新総裁が次期首相と目される党勢の復活である。「ある者の愚行は、他の者の財産である」と古人は言ったが、民主党の重ねる愚行(拙政)で、自民は財産(支持)を積み直した▼とはいえ総裁に安倍晋三元首相が返り咲いたのは、どこか「なつメロ」を聴く思いがする。セピアがかった旋律だ。当初は劣勢と見られたが、尖閣諸島や竹島から吹くナショナリズムの風に、うまく乗ったようである▼1回目の投票で2位だった候補が決選投票で逆転したのは、1956年の石橋湛山以来になる。その決選で敗れたのが安倍氏の祖父の岸信介だったのは因縁めく。「もはや戦後ではない」と経済白書がうたった年のことだ▼以降の自民党は、国民に潜在する現状維持意識に根を張って長期政権を保ってきた。人心を逸(そ)らさぬ程度に首相交代を繰り返してきたが、3年前に賞味期限が切れた▼思えば自民は、原発を推し進め、安全神話を作り上げ、尖閣や竹島では無為を続け、国の借金を膨らませてきた。景気よく民主党を罵倒するだけで済まないのは、よくお分かりだと思う。たまさかの上げ潮に浮かれず、責任を省みてほしい。 >><< 茂木健一郎(@kenichiromogi)さんの連続ツイート 第728回「天声人語の文体で、政治を論じるのはやめてほしい」 http://togetter.com/li/380308 連続ツイート第728回をお届けします。文章は、その場で即興で書いています。本日は、今朝読んだある文章について。 kenichiromogi 2012/09/27 09:12:17 kenichiromogi てせ(1)英語のessayは、日本語の「随筆」とは似て非なるものである。前者は、例えばEconomistの文章に見られるように、evidenceに基づくcritical thinkingの結晶であり、科学論文にもつながる。後者は感性に基づく主観の文章であって、曖昧さの本質がある。 kenichiromogi 2012/09/27 09:14:31 kenichiromogi てせ(2)もちろん、日本語の「随筆」にも美質がないわけではない。枕草子や、徒然草、漱石の「思い出す事など」は「随筆」の傑作であって、生きることの中で私たちが感じる心の揺れ、動きをとらえる。私自身も、「生きて死ぬ私」や「脳と仮想」などの随筆を書いてきた。 kenichiromogi 2012/09/27 09:16:03 kenichiromogi てせ(3)「随筆」の文体は、日本の一つの財産であるが、すべてのテーマを論じるのに適切ではない。例えば、政治的課題については、evidenceとcritical thinkingに基づく英語のessayの文体で論じるのがふさわしい。ところが、日本では「随筆」で政治を論じてきた。 kenichiromogi 2012/09/27 09:17:41 kenichiromogi てせ(4)「随筆」の文体で政治を論じることの愚、悪影響、不幸を、今朝の天声人語(http://t.co/unbYa9Ox)を読んで改めて思う。安倍晋三さんが自民党総裁になられたことを論じているが、全体として意味不明。主観や曖昧さの羅列で、何を主張しているのか一向に伝わってこない。 kenichiromogi 2012/09/27 09:19:18 kenichiromogi てせ(5)思いついて朝刊紙面で添削してたら、紙面が真っ赤になった。まず、「党名を変える動き」から論じることが適切だとは思わぬ。「和魂党」や「自由新党」が検討されたというが、どれくらいsignificantな動きだったのか。ニュースバリューを検討するバランス感覚がない。 kenichiromogi 2012/09/27 09:20:40 kenichiromogi てせ(6)「斜陽」という言葉で下野を論じているが、ナンセンス。そもそも、健全な議会制民主主義の下では野党になるのは当たり前。必ずと言っていいほど、数年後には政権に返り咲く。実際、今の流れはそうなっている。「斜陽」という感性的、主観的表現は、政治プロセスの本質にかすってもいない。 kenichiromogi 2012/09/27 09:22:17 kenichiromogi てせ(7)さらに、天声人語は、安倍氏の再登場を「なつメロ」と表現する。小学生でも考えつくような、陳腐な表現だ。読者に提供されるべきは、再登場の背景分析だろう。さらに、「ナショナリズムの風に、うまく乗った」という表現は失礼だ。「うまく」という言葉に、筆者の対象蔑視と低俗さが表れる。 kenichiromogi 2012/09/27 09:24:16 kenichiromogi てせ(8)その後の文章も、感性に流され支離滅裂。「人心を逸らさぬ程度に」は、政治的プロセスを論じる表現としては不適切である。あげくの果てが、結語の「たまさかの上げ潮に浮かれず、責任を省みてほしい」。自分を何様だと思っているのか。何を安倍氏に期待しているのか、全く伝わってこない。 kenichiromogi 2012/09/27 09:26:06 kenichiromogi てせ(9)今朝の天声人語の筆者には、以上の失礼をお詫びするが、考えてみていただきたいのは、朝日新聞の一面に載っている以上、天声人語には、公共性があるということである。この文体とスタンスが、日本の政治を語る時の精神風土を作る。その事の罪を、よくよく考えていただきたい。 kenichiromogi 2012/09/27 09:27:25 kenichiromogi てせ(10)テレビの政治討論番組でも、使われる言語が(特に政治評論家と呼ばれる方々において)感性的、情緒的であることの責任の一端は、天声人語にあるのではないか。このようなスタイルで政治を論ずることの愚に、もうそろそろ朝日新聞、および天声人語の筆者は気づいてほしい。 kenichiromogi 2012/09/27 09:28:37 kenichiromogi てせ(11)もちろん、天声人語にも、良い回はある。「花鳥風月」や「社会事象」を論じた回である。そのような時には、文体と対象がはまる。天声人語は、もし今のまま継続するならば、政治を論じることをやめるか、あるいは政治を論じる時には硬質な文体で議論する、第二の創業を目指してはどうか。 kenichiromogi 2012/09/27 09:30:18 kenichiromogi てせ(12)「脳トレ」で天声人語を書き写すという動きがあるようだが、特に政治を論じた回については、今のままではますます日本人の思考が情緒的かつ非論理的になるので、私は絶対反対である。再読、未読に耐えるような文章に、特に政治について書かれた天声人語はなっていない。 kenichiromogi 2012/09/27 09:31:56 kenichiromogi てせ(13)吉田兼好流の「随筆」ではなく、論理と証拠に基づく「essay」の伝統を、日本でも根付かせるしかない。新聞は、多くの読者が触れる公器として、日本の言論空間を前に進める社会的責務がある。新聞の顔である一面に、情緒的政治論を載せるのは、いい加減やめて欲しい。 kenichiromogi 2012/09/27 09:33:47 kenichiromogi てせ(14)最後に。橋下徹氏のツイッターでの文章は、時に論敵への烈しい言葉などがあり十分に伝わっていないかもしれぬが、日本語で政治的事象を論ずるスタイルの一つのイノベーション。冷静に読めば、論理的に緻密な構成になっていることがわかる。政治の季節は、ふさわしい言葉で語りたい。 kenichiromogi 2012/09/27 09:35:34 kenichiromogi 以上、連続ツイート第728回「天声人語の文体で、政治を論じるのはやめてほしい」でした。 >><<終わり ※ 茂木氏は12回目で「味読」(精読?)とすべきところを「未読」と転換ミスしているようなので、老婆心までに。 ▲
by hosi111
| 2012-09-27 14:44
| 教育・文化
「悟性的思考」と「理性的思考」2
インターネットのブログやサイトの記事や論文を読んでいて、最近とくに感じること考えることは、「悟性的思考」と「理性的思考」の相違ということだろうか。もっとも、それらがどう違うのか、また、そもそも悟性的な思考と理性的な思考とはどのようなものなのか、といった問題意識をもつ人自体が、ほとんどいないのが現状だと思うけれども、いずれにしても、思考の本質におけるこの両者の違いが、決定的に重要だ、ということを感じるようになった。 とくに、高名な学者、ジャーナリストや大学教授などにおいても、私の立場からすれば、その論考において「悟性的な思考」しか出来ていないな、という感想を持つ場合が少なくない。そして最近になって、とくに、そこでいわゆる「悟性的な思考」の破壊的な、否定的な働き、その現実的な作用を自覚するにつけて、ますます、この「悟性的な思考」の限界を、否定的な作用を人々に知らしめる必要を痛感するようになっている。また、ヘーゲルが自身の生涯を「悟性に対する理性の戦い」と表現せざるを得なかったことも、およそのところを推測できるようになったと思う。 もちろん、私自身も今のところ、悟性と理性の違いについて、明確に定式化できているわけではないし、また、「悟性的思考と理性的思考の相違」については、哲学上の根本テーマだと考えていても、まだ、この問題を完全に解決しているのでも自覚しているわけでもない。 ただ、およその輪郭だけここで述べれば、「悟性は分析し、理性は綜合する」ということだろうか。もう少しわかりやすくたとえて言えば、磁石を例にとって考えるならば、磁石には陽極(+)と陰極(-)がある。また、人間や動物などの生命体には生と死がある。そして、現実においては、陽極(+)と陰極(-)との間、生と死の間には明確な境界はない。しかし、一方では確かに私たちの認識においては、生と死、+と-の差異は歴然としている。 そこで悟性的な思考は、矛盾し両立しないものとしてそれらの二者を分断――これは判断することでもあるけれども――することによって「生ける現実を殺してしまい、破壊してしまう」のである。いわゆる自称「革命家」や狂信的宗教信者の多くは、なぜ、彼らがそうした思想や認識を持つに至るのか、ということを問題として考えるようになって、おそらく、――まだ、はっきりと論証できているわけではないが――今では、彼らが「悟性的な思考」しかできないからではないか、という推理をするようになっている。 いわゆる革命と保守の立場の違いといったことも、おそらくこうした問題との関連などでさらに深化させて論じる必要があると思うが、哲学者ヘーゲルなども、彼の生きた時代に経験したフランス革命末期のロベスピエールたちが辿った政治的な顛末などを目撃して、そうした破滅的な事態を招いたことに、啓蒙哲学の特質である「悟性的な思考」の論理的な帰結を認めたのではないだろうか。 大阪市長に当選した橋下徹市長やそのブレインでもあるらしい大前研一氏らの思考にも「悟性的な思考」の片鱗と特徴がさまざまに見られるように思う。もちろん、橋下 徹氏や大前研一氏らの思想や政治的な活動を高く評価はしているのだけれども、どうしてもその反面において「悟性的な思考」の限界も「感じている」のが現状だ、というべきだろうか。いずれにしても歴史や「概念としての大衆」は、理性的に事柄の必然性にしたがって動いてゆくのだろうけれども。大げさかもしれないが、こうしたテーマについて、さらなる「国民的な自覚と議論」を期待したい。 悟性的思考と理性的思考(1) http://anowl.exblog.jp/8909002/ ▲
by hosi111
| 2012-06-21 00:33
| 哲学一般
プロバイダの変更 先月の五月一日からプロバイダーを変更した。そのためにホームページに記録していた以前の文書が読めなくなっている。一九九八年頃に開設したホームページに記事や論考を記録しはじめていたが、消えてしまった。そのなかには欧米の学者の論文の翻訳の一部や聖書の詩篇などの翻訳などもある。いずれ上梓しようと思い、また途中でほとんど中断してしまっていたとは言え、ヘーゲル哲学大系を抄訳録したノート風の「ヘーゲル哲学事典」などもホームページに載せ始めていた。それも消えてしまった。 ホームページの標題を「哲学の小窓」として(http://www8.plala.or.jp/ws/)、それまでの論考や記事をそこに記録しはじめていた。しかし、記事を書くごとにいちいちアップロードしなければならず、HTMLタグやスタイルシートの活用にも手間もかかった。そこにやがてブログが登場してきた。そして、ブログの簡便さに馴れると、記事や論考のほとんどをブログの方に記録して、ホームページ上での論考の整理もおろそかになりがちだった。 科学としての思想、科学としての哲学を志すとなると、どうしても世界についての私たちの認識を、一つの体系として構築して行かざるをえない。真実に科学の名に値する哲学は体系的であるからだ。この認識の体系の基本的な骨格については歴史的にはすでにヘーゲルがやり遂げている。だからヘーゲル以降に生きる我々は、この哲学大系に対してどういう立場を取るかによって、我々の哲学的な立場が決まる。 私自身の最終的な立場は、まだ構想半ばではあるが、私自身の「哲学百科辞事典」(http://aowls.exblog.jp/)において明らかにしようとしている。しかし、この辞事典についても、私の「時間と能力」の問題もあって遅々として進んでいない。 しかし、いずれにせよ、どこまでやりきれるかはとにかく、新しいプロバイダーと契約し、ホームページも新しく開くことにした。内容については基本的には以前と変わり様がない。パソコンに保存されているデータをそのままアップロードして行くことになる。 当面は「全集アーカイブ」として、表紙だけをとりあえず再録した。(http://www.eonet.ne.jp/~anowl/index.html) 全集と体系の形態にいたるまで少しずつでも構築してゆきたいと思っている。さし当たっての記事や論考はブログにまず投稿して記録して行くつもりでいるけれども、それをこのホームページで、一つの必然的な認識の体系として、再構成して行かなければならない。 それにしてもこの非哲学的な国民性のなかにあって、それがたとえ世の覚えのめでたくもない仕事であるにせよ、他人は他人で我が道を行けばいいと思っているが、いったいそれが「何の役に立つのか」というモンゴル人種に特有の実利的な問いではなく、「真理」そのものを問うてきたつもりである。言い訳をするなら、真理こそがもっとも有益なものであるはずだから。 それにしても、こうした論考に意義はあるか。あるとすればそれはどのようなものか。一つはヘーゲル哲学の研究を中心的なテーマにしていることである。とくにヘーゲルの「概念論」の分析と研究とその意義を明らかにすることを中心的な課題としている。その成果も乏しく、内容もいまだきわめて不十分で未熟であるとは言え、ヘーゲルの「概念論」については、これまで誰も明らかにしていない独自の解釈の方向を示していると思う。この方面の研究は引き続き根本的な研究テーマである。このブログの目的でもある。 ヘーゲルの概念論は真理認識において不可欠の要素であり、また、従来の唯物論者マルクスなどの理解の及ばなかった概念観について考察し、イデア論の復活と再認識を目的としている。また、とくにヘーゲルがキリスト教の「聖霊」を、必然的な「絶対的な精神」として捉えなおしたところに、ヘーゲル哲学の意義を見出している。「ヘーゲル哲学」を「最深の神学」としてこの哲学にかかわり始めた私にとっては、この哲学とキリスト教との関連をさらに解明してゆく仕事も残っている。ヘーゲルにあっては「哲学」することは至高の宗教的行為だったのだ。 さらに、マルクス流の共産主義国家論の、歴史的な哲学的な破綻を受けて、ふたたびヘーゲルの『法の哲学』の現代国家論にもつ意義とその弁証法の再評価を主張している。つまり立憲君主国家の形成は、現代においてもなお課題として残されているということである。マルクスは市民社会の否定的な側面のみを見て、その肯定的な面を正当に評価することが出来なかった。 先般に行われた自民党と民主党の党首討論おいて、鳩山由紀夫氏などは「友愛社会の建設」をアピールされていた。なるほどたしかに、抽象的な「友愛」の精神に誰も反対する者はいないだろう。しかし本当の課題は具体的な各論で論争することである。 私の論考では、現在の自由民主党と民主党による利益談合型の政界を解体し、自由主義と民主主義をそれぞれ自由党と民主党によって充実発展させてゆく理念追求型の政党政治への変革を主張している。その上で、国家の行政形態として道州制国家を展望している。 元大蔵官僚の榊原英資氏や民主党などは、わが国ではいまだ歴史的な体験がないことを理由に、国と人口40万人程度の自治体(基礎的自治体)の二重構造国家を主張しているようだが、国家概念としては道州制国家の方が優れている。新しい歴史を創造してゆくことだ。 わが国ではヘーゲルの『法の哲学』の研究や「弁証法」の能力の修行もせずに、一国の指導者の地位にさえ就くことができるのである。以前に「国家指導者論」という小論(http://anowl.exblog.jp/7671044)でも論及したが、ヘーゲルの『法の哲学』や「弁証法」について何らの素養もなくして首相の職さえ勤まることのできるこの国では、その「党首討論」といっても、その実、自らの政治のレベルと学問科学の哀れな水準を、世界に告知するだけの恥さらしでみじめなものになり終わらざるをえない。それもやむをえないと言える。何度も繰り返して言っているけれども、西洋のことわざにあるように「自分たちにふさわしい水準以上の政治を国民はもつことは出来ない」のである。 フランス革命や文化大革命など過去の歴史的な事件などにおいても見られたように、また、現在も世界各地でなお続いている民族や宗教間の紛争、とくに中東やインドなどに起きている各宗教、宗派間の紛争などの不幸の根源が、理性的な思考の能力に欠けた指導者、大衆のその悟性的な意識と思考にあることも明らかにした。 狂信や個人崇拝の認識上の根源がその「悟性的思考」にあることを明らかにして、悟性的思考と理性的思考(弁証法思考)の違いを明確にし、後者の能力なくしては罰と不幸は避けられないこと、理性的思考(弁証法思考)の決定的な重要性について論及していることなど、これらもこの全集の意義であるといえるかもしれない。 ▲
by hosi111
| 2009-06-04 15:46
| 日記・紀行
hishikaiさん、懇切なご返事ありがとうございます。現在話題になっていて、昨日も参議院の外交委に参考人として招致されて意見を述べていた田母神前空幕長の懸賞論文問題について、今ちょうど私も論じようと思っていたところでした。 今回のあなたの文章を読んで、あなたの問題意識がさらによくわかったように思います。いくつかの興味ある論点がありますが、時間も限られていますので、とくに気にかかった二三の点に絞って私の考えを述べさせてもらおうと思います。 一つはキリスト教の問題です。これは今回のテーマである「グローバリズムと伝統」の問題とは少し外れています。それにもかかわらず、あなたがご返事の中でかなりのウェイトをもって語られているのが印象的でした。この問題についても、もう少し補足して述べておいた方がよいかもしれません。 その中であなたはカルヴァンの予定説を取りあげられていました。それについて私はよく知らないので断定はできないのですが、「人間倫理の最終的な課題は絶対者に預けておくことができる」というその言説は、何か現実回避の、あるいは勝手な人間の現実逃避のような印象を持ちます。 いずれにせよ、有限な人間に、肉体を背負った人間に完全な倫理をそもそも求めることはできないのだと思います。自然的な人間は「悪」であることを宿命づけられていると思うからです。あの大金持ちの青年に対してだけではなく、すべて人間に完全な徳を、完全な倫理を求めるのは、昔のユダヤ人のように律法主義に陥るのではないでしょうか。 人間が自力で自分を救うことができるなら、何もイエスが十字架で死ぬことはなかったのではありませんか。「律法によっては罪の自覚しか生まれない。神の前には誰一人として正しい者はいない」とも書かれてあります。(ロマ書3:20) 先の論考で引用した「持ち物を売り払って貧しい人に施し、私に付いて従え」というイエスの言葉を、「律法」のように受け取られているのではないかと気になりました。新約聖書以後の今日に生きる私たちには、そうした律法主義からは解放されているのではなかったでしょうか。「人が義しいとされるのは律法の行いにではなく、信仰による」とも書かれてあるのではないですか。(ロマ書3:26) また、hishikaiさんがおっしゃるように、「世間」が最終的な価値基準であるような伝統の私たちの社会で、仏教の「無の哲学」や、あるいは儒教のような「有の哲学」に終始するときは、前者おいてはすべてが「虚無」の中に解消され、後者においてはすべてが政治主義に陥ってしまうのではないでしょうか。 そして、もう一つの問題、これが私たちが今回のテーマにしていることだと思いますが、「袋小路の設問」の問題があります。 「袋小路の設問」とはあなたの文脈でいえば ①「西欧化の不可避」と「伝統文化の防衛」、 ②「全体の状況(グローバリズム)」と「伝統の縮約である諸基準(ナショナリズム)」 などのそれぞれ二者が「一体不可分であるディレンマ」にある中で懊悩している事態です。 hishikaiさんは、私の論考のなかに「アメリカグローバリズムの悪しき申し子竹中平蔵や堀江貴文」と「日本の古き良き伝統文化」の対立設定による衝突、あるいはその優先順位を巡るディレンマを発見され、そしてその懊悩の捌け口を反米に、あるいは反日の憤激の中に(またその反動としての媚米と自惚れ愛国心に)解消しようとする傾向を社会に見て、その解決の理路を探らんとされておられるようです。 こうした問題提起で感じるのは、いわゆる「悟性的思考」の限界であるように思います。二律背反する二者の矛盾関係を、「悟性的な思考」が解決することができず、ニッチもサッチも行かずに懊悩し破綻して自暴自棄に陥る有様です。 問題の核心は、悟性的な思考による「袋小路の設問」ではなく、理性的な思考(弁証法的な問題認識)による「出口の見える設問の仕方」ができるかどうか、その能力にあると思います。 hishikaiさんが述べられたような「二律背反」する矛盾関係の問題解決のためには、どうしても理性的思考(弁証法的思考)が必要であると思います。それら相互に対立し矛盾する二者を否定し去ることなく、それぞれを契機として含む新しい状況にアウフヘーベンする方向で問題解決をはかるべきでしょう。 その能力を育成すること、弁証法的な問題解決能力を日本人も修得すること、これが核心的な課題であると思います。私が以前に「国家指導者論」で、大学や大学院教育の中心課題が、弁証法的能力の育成にあると主張した根拠もここにあります。 以前にブログ上で議論のあり方について考えたことがあります。 「ブログでの討論の仕方」 そして、「伝統とグローバリズム」を巡る議論は、私の方は取りあえずここまでにしたいと思います。さらに興味あるテーマで、議論、討論のできることを楽しみにしています。 ▲
by hosi111
| 2008-11-12 10:23
| 哲学一般
ドイツ語の「Verfassung」には、もともと「書く」「記す」「著作」「起草」「体制」、「統治組織」、「心身の状態」、「身体の調子」などの意味もあるらしい。(三修社現代独和辞典)。憲法は英語では、Constitutionである。 高峯一愚氏の訳業になる『法の哲学』(論創社)において、第272節の標題は「一 国内国家体制自体」と訳し出されている。けれども、それでは原語の「Innere Verfassung fuer sich 」のニュアンスは当然のことながら十分には現し切れてはいない。言うまでもなく、Verfassung は、普通に日本語に訳すのなら、「憲法」と訳し出すはずである。しかし、高峯氏は、ここでは「国家体制」と訳しているから、この日本語訳には「Verfassung」に含まれる「憲法」の意義は現れてこない。したがってこの日本語訳だけを読めば、ここでヘーゲルが「国家体制」だけを論じて、「憲法」についても論じている個所であるということになかなか思い至らない。また、「fuer sich 」を「自体」と訳すだけでは、国家体制(=憲法)という概念の進展の意味合いが消えてしまう。翻訳の困難なところである。 ドイツ人の観念から言えば、国家体制と憲法は、同じ用語で、同じ概念の「Verfassung」で表現される。そして、ヘーゲルに言わせれば、国家体制(=憲法)が理性的であるのは、国家がその概念の本性にしたがって、自己のうちに区別を規定し、また、そうして区別されたそれぞれの要素を相互に作用しあうものとして自己の中に含んでいるからである。国家体制(憲法)が「概念の観念性」にとどまって一個の個別的な全体を構成するとともに、それぞれの要素もみずから個体的なものでありながら一つの全体を構成しているからである。 言うまでもなく、ここでヘーゲルが念頭に置いているのは、国家のおける三権分立であって、国家権力が必然的に立法権、司法権、行政権へと分割されることに、国家体制の概念の本性の理性的な性格を洞察している。しかし、ヘーゲルの三権分立論は、かならずしもモンテスキュウやカントのそれとは同じではない。それがどのように異なるかは、後に君主権を論じる時に詳しく展開しているが、要するに、ヘーゲルの場合は、彼の「概念」が、普遍性――特殊性――個別性という区別された諸要素に定立されるとともに、それらがまた不可分な活きた統一であるところに特色があるからである。「概念」のそうした理性的なものの見方に対して、抽象的で否定をもっぱらとする悟性は、この活きた統一をバラバラにして、活きた概念である生命や国家を殺してしまうのである。抽象的で否定的な悟性的精神で行われたフランス革命が、結局、立法権と行政権が互いに分裂して争い、やがて崩壊していったことを、ヘーゲルはその歴史的な例として挙げる。 ヘーゲルにとっては、国家とは精神が絶対的な必然をもってみずからを形成した理性的な世界である。そして、ヘーゲルにとって精神は自然よりも高く評価されるから、精神の産物である国家は人類至高の芸術作品とも捉えられ、また「国家は地上の神のように敬わねばならない」とも言う。 ヘーゲルの当時も国家体制については多くの人々によって、無限の饒舌が蝶々されてはいた。ヘーゲルは、それらはいずれも、空虚な饒舌の氾濫にすぎないとして嘆いている。というのは、それらの饒舌はいずれも「生半可の空論」や「宗教的な心情や霊感」から生み出されたものであって、「概念」の展開として哲学の認識の対象になるようなものではなかったからである。それは、当時のカント主義者やロマンティカーに対する辛辣な批判の繰り返しであって、若き日の処女作である『精神の現象学』の中でヘーゲル自身がみずからの哲学を打ち立てる中で展開した批判と同じである。 高峯一愚氏は、また自身の訳注の中で、マルクスのヘーゲル法哲学批判を引用して(どの個所からの引用であるかは不明であるが)、次のように言っている。 > マルクスはここで、ヘーゲルの「概念の本性にしたがって」を批判し、「それゆえ、憲法の理性は抽象的な論理であって、国家の概念ではない。憲法の概念の代わりに、われわれは概念の憲法をもつ。このような思想はみずからを国家の性質へではなく、むしろ国をできあがった思想へと導く」という。 (P346訳注) > しかし、概念の本性としての普遍性、特殊性、個別性の諸要素についての思想と論理は、当然にまた国家体制(憲法)の思想であり論理でもあるのであって、その概念の本性にしたがった活動の結果として、三権分立の国家体制(憲法)を合理的なもの、理性的なものと見るヘーゲルの国家観は必然的であり、論理的であり、まちがってはいない。この高峯氏の無批判な引用にも、ヘーゲルの概念観についての、根本的な誤解があると思う。 ▲
by hosi111
| 2008-08-11 05:45
| 国家論
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